「管理人の部屋」巻頭に掲げた上田敏の名訳「山のあなた」を最初に読んだのは国語教科書であった。少年がこの詩に出会ってから十数年後の現在、先日本棚で眼に留まった詩集を手にとり、この叶わぬ「幸」への憧れを詠う素朴な小品を再び読みかえした。
この作品が収められた作品集は『海潮音』という。文字通り海の潮の音であるが、出典は『妙法蓮華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」の一節である。それは「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音(妙なる音 世を観る音 梵なる音 海潮の音 彼の世間に勝れたる音)」という五つの声(音)を以て観世音菩薩が我々衆生に語りかけていることをあらわす件である。その内の海潮音は、その音の大きく深く響き渡る様をほとけの説法に譬えたものであり、また潮の干満が時を定めて行われるように、ほとけの慈悲の説法が時に応じ、機に応じて行われることを表現したものでもある。何故この海潮音を訳詩集の題名としたのか、その考察は碩学の方のご教授を仰ぎたい。
手の届かぬ「幸」を求めて懊悩する様は、この世の「生老病死」や「貧り・いかり・ねたみ」に苛まれる人々の気持ちの裏返しのようだ。観世音菩薩の五つの声、経典にはすぐその後に「是故須常念 念念勿生疑(是の故に須らく常に念ずべし 念念に疑いを生ずること勿れ)」と続く。大宇宙から日常に繋がる大いなるもの・時空を超えたほとけのはたらきに眼を凝らし、耳を傾け、身を任せる。そのような無私にして謙虚な姿勢無くんば掌に宝の珠を握っていても気がつくことは無い。
ほとけを人の姿に見立ててこの世に具現化し拠所とするように、娑婆に於いてわたしたちはお互い誰かに縁って生きている。「幸」がどこにあるか、それは誰かのために何ができるか、そんな風に思う。
現在アフガニスタンを実効支配しているイスラム原理主義勢力「タリバーン」が、国内にある偶像を破壊するとしてバーミヤンの地にある磨崖佛(崖面や巨石に彫刻した尊像)や美術館所蔵のガンダーラ佛像の破壊を始めたと報じられている。特に磨崖佛は高さ38mと55mの威容を誇り佛教美術史上重要な位置を占めるものであるが、それもこの世から無くなることになる。以前NHKで放送した『ブッダ 大いなる旅路』という番組でその姿を見たことがあるが、あの玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師)もバーミヤンの磨崖佛を記録に残していると思うと歴史の繋がりを感じて感慨深い。
「諸行無常」どんなに素晴らしいものでも形あるものはいつか失われる。人の手によって為されたものが、また人の手によって消え去るのも致し方無きことか。信仰の違いを超えた寛容さが対話と相互理解への前提だが、かの政権にはその余裕は無かったようである。
曾てその地に営みを持った佛教徒達はどのような気持ちを込めて巨大なほとけを刻んだのだろうか。それを想像し、磨崖佛の威容に思いを馳せつつ合掌。
検索情報を扱ういくつかの敷地へ当敷地の登録手続きを行い、その確認をしていると「宗教団体」等の宗教関連のものが数多くあることに気付く。その中でもわたしが注目したのは個人開設のものである。宗教系の敷地は多くが寺院や行事の紹介中心であるが、個人開設のものは中には自身の信心の在り方の回顧や属す教団への疑問等まで触れているものがあり興味深い。
勿論そういう疑問はその個人の見解で当人に責任の所在があるわけだが、ある敷地はいわゆる新興宗教系団体の坊さんが心情を吐露して上記の様な記述があり考えさせられる。わたし自身はその団体について名前は知っていたがその教義や組織については全く知らなかったので、内情に関しては読むもの一つ一つが新鮮だった。
一つ思うのは、そのような人たちの信心の動機は大変真剣且つ真面目であり、自身の向上と社会の変革に取り組もうとしていることである。世俗の常識・価値観は或る面から見たものに過ぎず、状況・立場が変わればまた変わってしまう。
モノ・カネの豊かさは好景気下での経済成長あってこその尺度である。働けば働くほど収入が増え暮らしが豊かになる時代は、公害や汚職や過労死や家庭崩壊などを犠牲にしても突き進んで良かったのかも知れないが、そんな時代は終わりを告げた。株価の低迷・失業率の増大・国と地方の抱える途方も無い借金(誰が返すのか?)等々、子孫の代にとんでもないツケを回してしまった。テレビジョン番組の解説では、歴史上このような社会状況で解決として採られてきた手段は革命か侵略戦争だという。
歴史は再び繰り返すのか。だが過去と異なる点は、歴史に学んだ到達点は過去よりも確実に進んでいることだ。信心もまた然り。2500年余り前にインドで発祥した偉大な普遍思想は幾多の歳月・政治体制・文化の違いを経て、現在尚生き生きとアジアの東の地に広まっている。かの坊さんの前途に佛縁の幸多からんことを祈らずにはいられない。わたしも法と自己を拠所として、弛まず歩んで…いけたらいいな(^^ゞ。
本日『朝日新聞』の「ひゅうまん」欄と、夜放映された『たけしの万物創世記』を見てヒトの将来について考えさせられた。
「ひゅうまん」では近年の遺伝子工学や遺伝子治療に対する宗教者の取り組みについての会議の様子を伝えるもので、目に見えない部分での生命操作など、これまでにない状況について対応に困惑する宗教者の発言が載っており、問題の難しさを感じる。また番組はヒトの誕生から死までを追い、生命の進化や人類の将来にも触れていて示唆に富むものであったが、寿命・性格・容姿などの多くの点で遺伝子の影響を受けるという点は気になった。
遺伝子については今までにも伝え聞くところで「ヒトの行動を本質的に支配するのは遺伝子である」などの説が唱えられていること位は知っていたが、最近「ヒトゲノム」という人間の遺伝子の内容全てがほぼ解明されたという報道を目にすると、嫌でも不吉な考えが浮かんでしまう。それは「優生思想」である。
『広辞苑』第4版によれば「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問」優生学が西暦19世紀末に起こり、それが後にナチスドイツのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)や日本の「優生保護法」の背景となる。ホロコーストは断罪され優生保護法は廃止となったが、既に新たな優生思想が見える。海外では精子や卵子を取り扱う業者があり(体外受精や代理母制度などが広く行われている)、高学歴者や容姿が良いとされる者のそれは高値で取引されるという。需要があって供給がある。子供が欲しい人にも喜ばれ人助けにもなる。法律にもなんら触れない。それは確かにその通りだ。今後もこういった「科学的な」妊娠・出産・育児は増えるだろう。
先日の檀信徒宿泊研修において講師の真嶋師が、世の中が便利になることは本当にいいことだけなのかを問いかけておられた。遺伝子工学や遺伝子治療は、その利用の一例として難病に苦しむ人を新たに救うことが出来る技術となるだろう。だがそれを利用する人のこころは誰も管理できない。優生思想・選民思想が今度は「科学的根拠」を背景に出て来ないとも限らないのだ。
だが「いのちの線引き」など誰ができるのか?生老病死は人として避けえぬ道である。ある病気が高確率で発生する可能性を秘めた遺伝子が認められたからといって、それを持つ人を貶める権利など誰にも無い。仮にそのようなものを排除しても、それ以外の要因をもつ病からは逃げられない。
わたしたちは誰もが「自我」を持ち、それは時に「我執(エゴイズム)」になる。「自分は病気になりたくない」「素晴らしい容姿が欲しい」「長生きしたい」等々。だが全てのものが互いに「縁起」によって成り立っている以上、病も容姿も全て在るがままに認識し出発点としてこそ前向きに生きられる、と思う。「悪事は己に向かえ、好事を他に与え」てこそ我執を超えた人類他生きとし生けるものの共生が叶うだろう。
『比叡山時報』(天台宗の広報紙)4月8日号の巻頭記事は「善良番組の盛り上げ必要」と題し、日本テレビ系列で放映されてきた番組「宗教の時間」が放送終了となったことを伝えている。テレビ番組の影響力の大きさは大変なものであり、視聴率1%でも百万人が全国でその番組を見ているという。しかし現実は低視聴率番組は打ち切られるか早朝・深夜に放送され、多くの人がテレビジョンを点ける時間帯には刺激的かつ攻撃的で俗悪なものが少なくなく、そのようなものに視聴者が興味を引かれている。それも資本主義の需要と供給の理論の為せること、とやかくいっても詮無き事ではあるが、その影で番組製作者と広告主の良心を感じる番組が無くなるのはなんとも哀しいことではある。
実は天台宗では『比叡の光』という教化番組を毎週放送している。この番組も朝方に放送されているためご存じない方が或いはほとんどかもしれない。興味を持たれた方の為に放送曜日・放送時刻と放送局の一覧を挙げておこう。
金曜日 | 5:25− | テレビ東京 |
9:00− | サンテレビ | |
土曜日 | 5:15− | 西日本放送 |
5:45− | 北陸放送 | |
テレビ愛知 | ||
6:00− | 九州朝日放送 | |
7:45− | 岐阜放送 | |
日曜日 | 5:45− | 東北放送 |
新潟放送 | ||
6:00− | 山形テレビ | |
信越放送 | ||
福島テレビ | ||
7:45− | びわ湖放送 | |
8:45− | KBS京都(キー局) | |
10:45− | ハワイKIKUテレビ(2週間遅れ) |
今夜の日本テレビ系『知ってるつもり!?』は「孔子」を採り上げていました。ご覧になった方も多いでしょう。場所こそ違えど、同時代を釈尊が生きたことは何か深い感慨を覚えます。
死ぬまで世俗との関わりを避けず、世のため人のため道を説き続けたその生き方には大いに感銘を受けました。理想に基づいた正しい政治を実現しようとしたものの、平和な故に押し寄せる怠惰によって政治の場から遠ざけられるのは何とも皮肉なものです。それでも諸国を巡り自らの理想実現を模索した姿は大変力強く伝わってきます。放送が伝えるように孔子が天命というものを感じたのも、その経歴を知ればやむをえない事かもしれません。佛教は「縁起」の思想にみられるように決定説を否定していますが、晩年のシャカ族虐殺など悲しい事件に遭った釈尊もあるいはどうしようもない運命や絶望を感じたことも少なくなかったでしょう。それでも二人とも現実逃避せず、人々と共に悩み苦しむ道を進みました。
晩年の孔子は後世に正しい教えを伝えようと五経の編纂に打ち込んだそうです。弟子の相次ぐ死去などがあっても絶望せず、最後まで己の信を通し実行したその姿には心打たれます。ある意味、釈迦・孔子・キリストの三大聖人に共通するものは、その生涯を通して示される純粋にして不屈の姿であり、人として時代や地域を超えてその在りように共感するのでしょう。天台大師や傳教大師の生涯もまた同様のものがあります。
解説のひろさちやさんが述べた「美味しいものを食べるのと、美味しく食べることは違う」という言葉は孔子の教えを身近な心掛けとするための含蓄あるものでした。2500年余り後の世のわたし達も古の聖人から現代の課題解決への生き生きとした教えを学ぶことができます。中断していた『論語』やキリスト教の経典の読解を再び始める意欲が湧いてきました。一歩一歩進もうと思います。
それにしても「三十にして立つ」何とも重い言葉です。
本日夕方のテレビジョン番組で、高校生の電車内のマナーの悪さについて採り上げていました。車内での集団座り込み、携帯電話の使用、更には喫煙と目を覆うばかりです。勿論これらは許される行為ではありませんが、番組で「ではどうすればよいか」まで踏み込まなかったのには物足りなさが残りました。
わたしは子どもは大人の鏡だと思います。汚職等の犯罪=刑事罰に当たる行為だけでなく、吸殻の投げ捨て、たんつば吐き、傍若無人な携帯電話の使用、割り込み等々、マナー違反はきりがありません。子どもの問題は大人の問題でもあり、大人が襟を正さなければ子どもも変わりません。先の番組で解決策に踏み込まなかったのは、そのことに触れたくなかったのでしょう。インタビュアーが喫煙少年を正しつつも最後まで毅然とした態度をとりきれなかったのは印象的でした。
とはいえ、目の前の行為を放置してよいわけではありません。大人が毅然とした態度を取らねば、子どもに社会的規範を示せません。わたしは制服姿で喫煙する青少年はまず注意します。「制服姿」と断ったのは、公の場で学校の制服で喫煙をするのはもう謹みも罪悪感も何もない無法な行為だからです。わたしの中高生時代も喫煙する者はいましたが、彼らは先生に見つからないようやるなど、自らの行為のタブー性や恥ずかしさ・違法性を承知しつつ行う一種の謹みがありました。今はそれが薄れています。あと集団でたむろしている場合は流石に身の安全を考えますが、それ以外はまず注意します。
決して怒りを前面に出さずに話しかけます。今の子どもは一般に怒られ慣れていないので、いきなり高圧的に出ると衝動的な怒りを買いやすいのです。目的はけんかではなく喫煙を止めさせることです。言葉はやわらかく、余裕を持った大人の態度で接します(^^)。タバコ・ライターをこちらに渡すようにいい、喫煙はいけない旨を話して、そのままタバコやライターは持ち去り近くの交番や駅職員等に渡します。彼らもいけない行為であることは承知しているので、静かに諭すように話し掛けるとほとんど素直に聞きます。危険がないかどうか良く対象の子を見てから話しかけるので、これは人物観察の練習にもなります。経験から要点を一つ挙げると、一人か二人であれば彼らは拍子抜けするほど普通の青少年です。決して世間で言うほど荒れてもいないし暴力的でもありません。
昨今の暴力事件を考えるとためらう気持ちも湧きますが、大人に注意される⇒心のどこかに残る⇒少しずつ他人の目を気にする⇒場所によって相応しい言動を考える、という心の変化を期待しているのです。人の社会的存在は他者との関係によって位置付けられます。大人が子どもにきちんとした働きかけをしなければ、両者の良い関係の築ける社会など望むべくもないでしょう。
みんなかつては青少年少女でした。わたしもその時代は大人や社会への不満や反発を抱えていました。今の子どもも然りです。いや、子どもへの虐待、将来の社会的負担等、表面上はモノ・カネが豊かでもその置かれた状況は更に厳しいかもしれません。
わたしも含む大人一人一人が子どもを異端視せず理解し受け入れて、観音菩薩の慈悲と不動明王の厳しさを併せ持って付き合っていければ、日本の将来を担う青少年に大いに期待してよいのではないでしょうか。
近頃事件報道で表題の言葉を良く聞きますが、釈然としません。これは「中国」の部分がアメリカやイランその他の国名でも同様です。
以前から海外でバスや飛行機事故に大勢の人が巻き込まれた時に放送員が伝える「日本人は(含まれて)いませんでした」の言葉。これも奇妙な言葉です。邦人で事故に遭遇した人がいれば家族や関係者に速やかに連絡すればよく、なぜ殊更に自国民の安否を報道するのでしょうか。これは仮に「日本人は(含まれて)いませんでした」に対して「○○人は何名が巻き込まれました」「××人は何名が・・・」と報道する様を想像してみればそのおかしさが分かります。
表題の件に戻って、事件解決のために必要な情報はなんでしょう。犯人の体格・年齢・性別・服装などが考えられます。では「中国人(風)」というのは事件解決に必要な情報かといえば、これは事件解決の手がかりというより中国人一般への偏見を煽るものに思えます。
喩えるならば、普段事件が起こったときに犯人が坊主頭であったとき「犯人は僧侶(風)」という表現をしたらどうでしょう。「坊主頭」と「僧侶」は関連はありますが等しい関係ではありません。こんな表現をされればたちまち問題になるでしょう。断定であれば尚更です。犯人が上州弁らしき言葉づかいであったとき、「犯人は群馬県人(風)」とされれば、わたしも黙ってはいられません。また日本人が外国に旅行または住んでいたとして、現地で刑事事件が起きた時「犯人は日本人(風)」と報道されれば、どんな気持ちでしょう。
以上のように国籍や民族に結びつけた表現は極めて漠然とした意味合いです。それを聞いて連想する内容は人によってかなり差があります。特にアジア圏の民族は外見が酷似していて、強盗のような緊迫した状況ではなおさら正確な状況把握は困難です。日本人でもカタコトの外国語を話せば容易に成りすましができます。かの狭山事件において犯人像を短絡的な部落差別に結びつけたように、対象のあいまいな捉え方は非常にあぶないです。
勿論中国人その他外国人が「犯罪を犯さない」というのではありません。悪事をなす恐れがあるのは日本人も外国人も変わりません。ただ日本人ならば「・・・(風)」という物言いを避けるところが、外国人の疑いがあれば大っぴらに「中国人(風)」「イラン人(風)」などと報道することに危うさを感じます。事件解決の名のもとに流される情報で、その他多くの外国人が差別を受けることは避けなければなりません。
現在日本は100人に一人は外国人が住む国です。事件報道における国籍や民族を比定した物言いは止めて欲しい。他人を慈しみ共に悲しみを分かち合う心をもって近隣住民や、近隣国の人々と付き合いが出来る時代を築きたいものです。
先日大阪で起きた多数の小学生らが殺傷された事件は本当に痛ましいもので、関係者の方々には掛ける言葉もないほどです。わたしも相当落ち込みました。
あれから日本各地で似たような事件が続いています。大阪の事件をきっかけに子どもへの加害を恐れなくなったかの如く大人たちが子どもを襲った報道を聞くと、社会問題の改善は程度の差こそあれ明らかにわたしたち一人一人の身近な課題であることが分かります。決して他人事ではありません。いつわたしの、そしてあなたの家族・親戚・友達或いは知人が悲しい事件の当事者になるか、否定し得ないのです。
特に大阪の事件に関しては様々な情報が溢れ、その事件背景の分析についてはなお慎重に見分ける必要がありますが、個人的には今ほど家族・地域・世代の人間関係が希薄な時代は今までにないのではないか、と漠然と思うようになりました。
私見を申せば、誰か一人でもあの容疑者と普段会話を交わす人物がいれば、あそこまでひどい事件は起きなかったのではないか。自身が周囲の人間関係から切り離され、社会に於いて何者にも連帯感情を抱くことが無くなれば、他者への思いやりやいたわりなど必要なくなり、一切の社会的責任を考えることなく感情の衝動のおもむくままに行動することに何のためらいもなくなります。そこには他人の痛み・苦しみ・悲しみを思い遣る気持ちなど皆無だからです。その気持ちこそが社会の信頼関係を築く根本です。
わたしは容疑者の父親が、まるで赤の他人について尋ねられたかの如く談話をしていたのがひどく印象に残っています。自業自得な面も多くあるとはいえ、家族や友人から疎外されていった容疑者がついには自身をも疎外するに至って「死刑になりたい」ために多くの子どもを巻き込む悲惨な事態を起こしてしまいました。
社会悪を為した者は法の裁きを受けねばなりません。ですが、失われた命は二度と還りません。どのような責めを負っても完全な償いは叶わないのです。そして仏教の究極的立場は、善悪を越えてあらゆる人々を救い導かねばなりません。
多様化・個別化の進む家族・地域・社会の人々の絆をどう再生してゆくか、現代の仏教者にとって大きく重い課題です。
近所の郵便局へ郵便を投函に行く途中、小学校の前を通りました。昼間にもかかわらず鉄の門はぴたりと閉ざされていました。それは子どもを虐げる社会の大人たちへの拒絶感と不信感を、ありありと示しているようでした。
中学生になってラジオカセットデッキを使い始めてから、ラジオ番組を良く聴くようになりました。声と音楽で構成される世界は、テレビジョンとは違う魅力を与えてくれます。容姿・見た目は関係ないので出演者の意外な魅力を見つけることもありますし、テレビジョンではあまりお見かけしない芸能人や放送員がラジオ番組で大いに活躍しています。わたしの住む地域では、民放はTBSラジオ(毎日放送)の電波が良く受信できるので昔から良く聴いています。特に大沢悠里氏の軽妙な話術は昔から変わりません(^^)。
さて夜のラジオ番組は各局とも若者向けの賑やかな番組構成がほとんどでしたが、NHKラジオが近年「ラジオ深夜便」という朗読や静かな音楽・語りを中心とした番組を始めて大きな反響を得て注目され、その多様化が見られるようになりました。
ここに紹介するのはTBSラジオ系毎週月〜金の22時から23時40分放送の討論番組「アクセス」です。日替わりで著名な論評者(田中康夫・えのきどいちろう・宮崎哲弥・神足裕司・二木啓孝・崔 洋一)を迎え案内役の女性放送員の進行のもと日々社会時事問題について聴取者に電話で参加してもらい議論を深める番組ですが、このような番組が好評を持って迎えられるのは以前なら想像できませんでした。
報道による膨大な情報が流され一々について深く見識を持つ機会も少ない日常で、週末を除き毎日このような番組を制作し続ける関係者の努力には頭が下がります。それぞれの問題について賛成・反対の意見は興味深く、「百人いれば百の意見がある」いろんな人の意見があることを改めて感じます。当たり前ながらこのような点をよく踏まえ、ほとけの教えを説くにあたって当事者各人それぞれに合った分かりやすい説法「対機説法」をその根本としたお釈迦様の叡智にはまことに感嘆します。
一日の出来事を分かりやすくまとめた「カウントダウン・トゥディ」なども便利で、一聴をお薦めします(「私的結縁」から「アクセス」の電網敷地へ行くことができます)。