『願文(がんもん)』を読む


 当敷地の題名「悠悠三界」の語を巻頭に置く傳教大師最澄作『願文(がんもん)』については「巻頭語」にて簡単にその内容に触れましたが、ここにその原文と読み下し文・現代語訳を並べて掲示しておきます。現代語訳を手がかりに原文や読み下し文を読み、若き大師が込められた決意を感じていただければ幸いです。
 原文は『傳教大師全集』巻一(世界聖典刊行協会)収載を底本とし、漢字は新字体に改めました。読み易さを考慮し適宜段落を設けました。カッコ付きの一字は画面表示が出来ないので、同じ意味の字に置き換えました。元の字は原文をご参照ください。作成に当たっては、漢文は天台宗典編纂所掲載文に、読み下し文は天台宗教学部発刊の『願文』に、現代語訳は中公バックス日本の名著3『最澄・空海』(中央公論社)に大変依るところが多かったです。ここに謝意を表しますm(__)m。

  

『願文』漢文


 悠悠三界。純苦無安也。擾々四生。唯患不楽也。牟尼之日久隠。慈尊月未照。近於三災之危。没於五濁之深。加以。風命難保。露体易消。草堂雖無楽。然老少散曝於白骨。土室雖闇(狭)。而貴賎争宿於魂魄。瞻彼省己。此理必定。
 仙丸未服。遊魂難留。命通未得。死辰何定。生時不作善。死日成獄薪。難得易移其人身矣。難発易忘斯善心焉。是以。法皇牟尼。仮大海之針。妙高之線。喩況人身難得。古賢禹王。惜一寸之陰。半寸之暇。歎勧一生空過。無因得果。無有是処。無善免苦。無有是処。
 伏尋思己行迹。無戒窃受四事之労。愚痴亦成四生之怨。是故。未曽有因縁経云。施者生天。受者入獄。提韋女人四事之供。表末利夫人福。貪著利養五衆之果。顕石女担輿罪。明哉善悪因果。誰有慙人。不信此典。然則。知苦因而不畏苦果。釈尊遮闡提。得人身徒不作善業。聖教嘖空手。
 於是。愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。
 謹随迷狂之心。発三二之願。以無所得而為方便。為無上第一義。発金剛不壊不退心願。
 我自未得六根相似位以還不出仮。其一。
 自未得照理心以還不才芸。其二。
 自未得具足浄戒以還不預檀主法会。其三。
 自未得般若心以還不著世間人事縁務。除相似位。其四。
 三際中間。所修功徳。独不受己身。普回施有識。悉皆令得無上菩提。其五。
 伏願。解脱之味独不飲。安楽之果独不証。法界衆生。同登妙覚。法界衆生。同服妙味。
 若依此願力。至六根相似位。若得五神通時。必不取自度。不証正位。不著一切。願必所引導今生無作無縁四弘誓願。周旋於法界。遍入於六道。浄仏国土。成就衆生。尽未来際。恒作仏事。(終)


『願文』読み下し文


 悠々たる三界は純ら苦にして安きこと無く、擾々たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝し、土室闇く(狭)しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻、己を省みるに此の理必定せり。
 仙丸未だ服さざれば遊魂留め難く、命通未だ得ざれば死辰何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きは其れ人身なり。発し難くして忘れ易きは斯れ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩況し、古賢禹王は、一寸の陰・半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐるを歎勧せり。因無くして果を得る、是の処り有ること無く、善無くして苦を免るる、是の処り有ること無し。
 伏して己が行迹を尋ね思うに、無戒にして窃かに四事の労を受け、愚痴にして亦四生の怨と成る。是の故に、『未曽有因縁経』に云く、「施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入る」と。提韋女人の四事の供は末利夫人の福と表れ、貪著利養の五衆の果は、石女担輿の罪と顕る。明らかなる哉、善悪の因果、誰か有慙の人にして、此の典を信ぜざらん。然れば則ち、苦因を知りて而も苦果を畏れざるを釈尊は闡提と遮したまい、人身を得て徒に善業を作さざるを聖教に空手と嘖めたまう。
 是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く。
 謹みて迷狂の心に随い三二の願を発こす。無所得を以て方便と為し、無上第一義の為に金剛不壊不退の心願を発こす。
 我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還出仮せじ。其の一。
 未だ理を照らすの心を得ざるより以還才芸あらじ。其の二。
 未だ浄戒を具足することを得ざるより以還檀主の法会に預からじ。其の三。
 未だ般若の心を得ざるより以還世間の人事の縁務に著かじ。相似の位を除く。其の四。
 三際の中間に修する所の功徳は独り己が身に受けず、普く有識に回施して悉く皆無上菩提を得せしめん。其の五。
 伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り法界の衆生と同じく妙味も服せん。
 若し此の願力に依りて六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願くば、必ず今生無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界を旋り、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さん。(終)




『願文』現代語訳解釈文


 わたしほか有志による天台典籍勉強会において『願文』を読み進め、この度その解釈を現代口語訳としてまとめました。解釈文作成の要点は以下の通り。
  1. 原文の語彙を、辞書解釈をもとに忠実に現代口語に訳す。
  2. 仏教知識の無い人が、聞いてその意味を理解できる平易な言葉にする。
  3. 「菩薩」「功徳」などの馴染みはあってもその意味をつかみにくい仏教語や、「五神通」などの専門用語、差別的な意味合いの強い熟語などは、原文の意を損なわない範囲で分かりやすい文に置き換えるか省く。

 今後も各位のご意見をいただいて随時よりよいものに直していく予定です。

 書店の仏教書の棚を見ても、民衆への布教に力を入れた鎌倉時代の各宗派の祖師(法然・親鸞・道元・日蓮ら)の著作に比べると、一般の方にとって最澄さまのご著作は馴染みが薄いといえます。拙い現代語訳解釈ではありますが、この解釈文によって一人でも多くの方が最澄さまの思想に触れ、天台のおしえにご関心を持っていただければ、作成者の一人としてなによりのよろこびです。


   【『願文』現代語訳解釈文】
制作・天台典籍勉強会

 はるか限りないこの世界は、ただ苦しみばかりで安らかなことは無く、乱れ騒がしい生き物たちは、ただ思い悩むことばかりで安らぐことはない。お釈迦様が遠い昔にお亡くなりになられてより以来、次のほとけさまは未だお姿を現されていない。災いによるこの世の終わりが近づきつつあり、人々の考えが誤って汚れに満ちた世の中に沈んでしまっている。その上、風に吹き消される灯火のようにはかない命は保ちがたく、朝露のようなこの体は消えやすい。草葺きの葬送を執り行うお堂には楽しみは無いのに、老いも若きもここに白骨を散じさらし、墓の中は暗くて狭いにもかかわらず、どのような身分や職業の人であれ相争ってここに魂を宿らせるようなものである。他人を仰ぎ見て、自分を省みるに、この理は確かである。

 わたしは不老長寿の薬をまだ飲んでいないので、魂をこの世に留めておくのは難しい。また前世の行いの善悪を知る神通力をまだ得てはいないので、自分の死期をいつであると定めたらよいのであろうか。生きている間に善い行いをしなければ、死を迎えた日には地獄の薪となって火に責められるであろう。得ることが難しく、また得てしまえばほかのものに生まれ変わってしまい易いのが人の身である。起こし難く、起こしても忘れ易いのが善の心である。そこでお釈迦様はこのことを、大海原の中の一本の針を探すことや、世界で一番高い山の頂上から垂らした糸を麓の針の穴に通すことに喩え、中国古代の賢い王である禹(う)は、少しの時間、わずかな暇をも惜しみ、一生が空しく過ぎ去ってゆくことを嘆いた。原因が無くて結果があるという道理はなく、善い行いをすることなく苦しみを免れるという道理もない。

 ほとけに伏して自分のこれまでの行いを尋ね考えてみるに、戒律にかなう正しい行いもなくひそかに衣服や食事などの生活の世話を受けながら、真理を知らず愚かにしてまたあらゆる生き物に迷惑をかけている。このためお経には「他に施す者は天に生まれ変わり、逆に施しを受けてばかりいる者は地獄に入る」と説かれている。ある女性が前世において献身的に施しの精神を実行したところ、生まれ変わって国王の后となる幸福に恵まれ、その施しを貪り受けた5人の出家者は、生まれ変わって皇后の乗る御輿をかつぐ奴隷となる不幸な結果に顕れた。行いの善悪により、その結果の善悪もまた明らかである。恥を知る人であるならば、誰がこの教えを信じないであろうか。このようなことにより、苦しみの原因を知りながらその結果を恐れない者を、お釈迦様は悪の心に囚われてほとけと成るに及ばない者として退けており、人の身に生まれながら、いい加減に過ごして善い行いをしない者を、ほとけのおしえでは、宝の山に入りながら何も得ずに帰る者であると責めている。

 ここにおいて、愚か者の極みであり、狂っている者の極みであり、徳のないつまらない僧侶であり、最低である最澄は、仏弟子としてはほとけのおしえに違反し、国民としては天皇の定めた法に背き、子供としては親孝行を欠いている。

 謹んで迷い狂える心に随いながらも、ここに五つの誓いを起こした。全てのものにとらわれないことを手段とし、最高の真実のおしえのために、壊れたり退いたりすることのない、堅い決意の心からの願いを起こしたのである。
  1. わたしは、世のあらゆる出来事を先入観や煩悩に惑わされずありのままに見聞きし考えることができる相似の位という修行の段階に至るまでは、比叡山を下りて世間に出るまい。
  2. ほとけの教えを明らかに照らし出す心を得るまでは、修行に関係ない芸事はするまい。
  3. 戒律を完全に守り身につけることができるまでは、法要に出て施主からお布施をいただくことはするまい。
  4. ほとけの智慧に満ちた心を身につけるまでは、世間の諸々の仕事をするまい。ただし、相似の位を得たならばこの限りでない。
  5. わたしが現在の世で修めた善い行いの報いは、独り占めすることなく遍くすべての生き物に施して、ことごとく皆最高のほとけの智慧を得させたい。
 ほとけに伏して願うところは、苦しみの世界から脱した喜びに一人浸ることなく、安らぎに至る方法を一人だけ知ることなく、この宇宙のあらゆる生き物が同じく苦しみの世界から脱し、安らぎに至る方法を知らしめたい。
 もしこの心からの願いが叶って相似の位に至り、5種の不思議な力(見えないものを見る・聞こえない声を聞く・他人の心を知る・過去を知る・どこへでも自由に行く)を身につけたときは、必ず、自分だけがほとけの智慧を得ることなく、ほとけと同等の存在にはならず、あらゆる物事にとらわれることはなすまい。



(2569.10.21)




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