脳死及び臓器移植に関する特別委員会答申
佛教教団やそこに属す個人が世間にて日常的に宗教活動を行う以上、重大な社会事象にどう対応するかを問われる場面が出てきます。積極的に見解を示し一般にもその考えをよく宣布する教団もありますが、天台宗は奥ゆかしく、悪く言えば優柔不断な性向でその様な主張をよくしません。5年前の2561年に当時社会課題であった「臓器移植法案」に関して「脳死・臓器移植」についての一宗の見解を示しています。発表当時は法案審議の最中ということもあり新聞にも採り上げられましたが、一般に広く認知されたかどうか…。
公に示された宗の見解をここに引用し、広く皆さんの思慮の一助とするものです。
(以下本文は『広報天台宗』第2号に依る。時制や肩書きは当時のまま。表示の都合上数字記号等一部変えてあります)
答申に至るまでの経緯
宗務総長より「脳死・臓器移植」という現代の課題について、特別委員会を構成して、一宗の見解をまとめるよう平成六年三月の通常宗議会に提案され、賛同を得た。
委員会を構成する五名の委員はプロフィールに見られるように、現時点で宗内において最適と思われる方々を委嘱することができた。
委員長は互選により大久保委員が選任され、審議が進められた。検討された項目は次の諸点である。
(1)脳死を人の死と認めてよいか
(2)臓器移植の現状と問題点
(3)特に天台教学の立場からみて、ドナーの立場とレシビエントの立場をどう考えるか
(4)天台宗としての見解をどう出すか
国の脳死臨調が少数意見の反対を併記した上で答申したことからもわかるように、この問題は日本の伝統文化をゆるがしかねない内容を含んでいる。
時あたかも臓器移植推進派の強い要請により、移植法案が国会に上程されたが、各党派とも賛成、反対、両論があり、党議決定ではなく個人の判断にまかせるところとなり、法案は、反対論も強いところから継続審議にまわされ、今日に至るまで成立していない。
問題点となるのは
(1)従来の死と異なる脳死は見えない死であり、複数以上の医師の判定による。従って、死の時刻特定ができぬ
(2)判定は人為的におくらせ得る
(3)脳死状態はすぐ全体死に移行したものだが今では百日ものばし得る
(4)医学上解決していない問題もある術後の管理
(5)膨大な医療費
(6)脳死体の不足……公平の確保
(7)人権侵害の事例があとをたたぬ
・受刑者・精神病者をドナーに用いる
・多重実験を行っている
(8)医の倫理が確立せずインフォームドコンセントが施されていない
(9)医師と患者の関係
(10)臓器売買や外国での移植
(11)仏教からみた移植の是非
(12)移植してまで延命をはかるのは執着がすぎるのではないか
(13)ドナーの誠意は布施になるか
(14)レシピエントは人の脳死を期待してないか
(15)最新のドナーの意思はどうたしかめるか
などの諸点をどう考えるかが討議され、数回の委員会を経て以下のごとく答申された。
脳死及び臓器移植について
天台宗「脳死及び臓器移植」に関する特別委員会
(1)問題の背景
近代医学の進歩は目覚ましく、臓器の欠陥により生をまっとうできない患者に対して、他人の臓器の移植によって延命を図り得る技術が確立されつつある。
しかしながら、角膜、腎臓などは死体からの移植で成り立ち得るが、心臓、肝臓などとなると、より新鮮な臓器でなければその成功は見込めないのが現実である。
一方に、死に瀕して蘇生限界点を越えた患者があり、他方に、臓器の移植によって延命可能な患者があるならば、臓器移植は強力な治療手段となり得るだろう。
そこで近代医学は新たに脳死の概念を提示してきた。脳死と臓器移植の問題は、本来それぞれが独立したものだと言いながら、脳死者を死者の範疇に入れ、臓器移植を推し進める立場がある。
(2)脳死は人の死か
一般に、脳死者は限りなく死者に近いことは認められるものの、死者であるとは認めがたい。何故ならば、まだ生きている部分が明確に存在し、眠るがごとき状態で呼吸を続けている脳死状態を人の死であると決める社会的合意は、未成立だと思われるからだ。
さらに、脳を人体器官の中で特別視する考え方は、脳の質を問題とする考え方に通じ、それは劣った脳や病んだ脳を蔑視するという、弱者の権利侵害に走りかねない。また、脳死体を利用する多重実験の実例もあり、脳死体を医療資源に利用することは、人間の尊厳を冒すという考え方もある。
仏教の立場からは、心身一如を基本とするので、安易に脳死を人の死とすることに賛成できない。
すなわち天台教学では森羅万象すべてに、真理すなわち仏性が存在し、全体が調和しながら流転しているとする。従って、肉体と生命とは時間的にも空間的にも分けられないものであり、それを分けて認識することは無明(煩悩)のためであるからだ。
(3)臓器移植についての問題
脳死者からの臓器移植は、人工臓器の開発がいまだ不十分である現状においては、有効な治療手段であることは認めざるを得ない。
しかし、現実にそれを実施するためには、数々の問題点が指摘されている。
すなわち拒絶反応をどう押さえるか、感染症を防ぐ手立てなど術後の管理をどう乗り越えるか、又、膨大な手術費用による医療保険の圧迫をどうするか、適合するドナーの不足から施術順の公平確保をどうするか、又、臓器売買の禁止をどう徹底させるか、脳死者が死者でない以上、臓器摘出は傷害や殺人にあたるが、それから免責される法的措置をどうするかなどである。
これらの問題は医療、法律はじめ社会の諸分野において十分検討されることが必要である。しかしながら現実に脳死体からの移植手術を待ち望む重症患者が存在し、それしか治療の可能性のない状態で、一方それを実施する技術も施設もある中で、頑なにそれを拒否するだけの傍観的態度は許されないであろう。
しかし、移植のために他人の新鮮な臓器を求めることは、確実に一人の人間の死を必然とすることであり、たとえ蘇生不可能な生命であっても、他人の生命を縮めて自分の延命を図ることに外ならない。これはまさに人間存在の根幹にかかわる問題であり、正しく宗教の課題そのものであり、技術論で合理化をはかるべきものではない。
(4)臓器移植は是か非か
臓器移植には、それを提供する側(ドナー)と、受ける側(レシピエント)がある。仏教徒としてそれぞれどのような姿勢をとるべきであろうか。
提供者(ドナー)にとって、臓器の提供は布施の行為と考えられる。法華経の中に「不惜身命」が説かれている。これは、永遠の生命を得ようとするためには、現世の身体、寿命さえ捧げることを惜しんではならないという教えである。
永遠の生命とか真実の生命を得るというのは、「仏性の開顕」すなわち真実が現れることをいう。まさしく人間の尊厳、あらゆるものの生命の尊厳を知るという意味である。
それは、人間には本来的に、出生し現在生きていることの尊さ、他人や物の存在の意義を認める心の尊さ、自己を次第に高めることのできる尊さを具えていることを自覚することである。
このような自覚は、やはり法華経に説かれる如来の成仏よりこのかたの、人々を無上道に導こうとする誓願や、観世音菩薩の修行(五観)を通じて得られるのである。すなわち、宇宙の森羅万象は刻々と変化して常住でないことを知って執着をなくすことにより(真観)、現実の世の中の姿をそのまま美しく認識できると(清浄観)、森羅万象は調和しながら変化しているなかで、自分の存在がその一部であると同時に、全体であることがわかる(広大智慧観)。そのとき他人の苦しみが自分の苦しみとして感じられ(悲観)、自分の喜びを他人と分かち合う(慈観)ことができるのである。
まさに「仏性の開顕」であり、正しい布施が行われる所以である。
但し、不惜身命の捨身の行とは、私達の真実の生命を得るための修行である。真実の生命とは、過去、現在、未来の三世にわたる命の自覚をいう。だが三世を強調するあまり、現世における生命を妄りに軽んじてはならないことを世間相常住の言葉で教えていることを忘れてはならない。
だが、他人の非常時に際して、又は親が子を、あるいは子が親を護るとき、現実に肉体を捨てる行為が見られることがあるが、特に無縁の慈悲の極致である「己を忘れて他を利する」善心の発露は否定されるべきではない。それゆえ蘇生限界点を越えた脳死状態のとき、いわゆる人生の末期のひとときが臓器提供という布施によって慈悲を施すことになるので、仏教徒として当然認められてよいことである。
次に受ける側(レシピエント)にとって臓器の提供を受けることは、臓器の欠陥によって限られている命を、移植によって延命させることである。すなわち自分の受けるべき業を変えることを意味する。
天台教学では決定業(結果を受けるべき業)も敬虔な祈りによって転じることが有り得るとしており、臓器を受けることは容認し得るところである。
しかし、この施しは正しい布施、すなわち法施でなければならない。提供者の意思が慈悲心(善心)にもとづくものであり、提供される臓器が売買によるものではなく、さらに受ける側は、仏からの法施として受け取るべきで、生命を延ばし得た喜びを社会のために役立てようという誓願をすべきであろう。
いやしくも、ドナーとレシピエントの関係が絶対にギブアンドテイクの関係にあってはならない。
(5)結び
- 脳死を人の死とすることに賛成できない。
- 脳死者が自己の臓器を提供することは、布施の行為として認められる。但し、事前に書面による本人の意思の確認がなければみとめることはできない。
- 移植によって生命を延ばし得た者は、その喜びを社会のために役立てようという誓願にしてほしい。
- 臓器移植は望ましくないにしろ、現時点で必要とされる以上、安全、公正、公平、適切に実施されるべく我々をはじめ社会全体で必要な研鑚と適切な措置が講ぜられることを期待する。
- 臓器の提供は、本人の意思によってなされるよう、ドナー・カードなどの制度の工夫をこらすと同時に、臓器を受けた側は、生命の尊厳を自覚するための、厳粛かつ崇高なる宗教的儀式が必要であろう。
委員
大久保 良順(委員長)
妙法院門跡・天台宗勧学院長・元大正大学学長・天台学会会長
三輪 真純(副委員長)
群馬教区慈恩寺住職・元安中市教育長・布教師
原 秀男(委員)
天台宗顧問弁護士・元政府脳死臨調委員、梅原猛博士らと「脳死は人の死ではない」との立場に立たれた。
田畑 良宏(委員)
山科元慶寺住職・滋賀医大助教授、救急救命センター医師
上村 勝彦(委員)
浅草寺一山吉祥院法嗣・東京大学文学部教授、印度哲学専攻
(2566.4.20)
・関連結縁
臓器移植法改正を考える(「森岡正博の生命学ホームページ」内)
臓器移植法に関する情報掲示や論議が盛んに為されている、大変勉強になる敷地です。
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