角大師・魔滅(豆)大師の由来
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角大師 | 魔滅(豆)大師 |
上に示した図柄の御札を見たことのある方は少なくないでしょう。伝承が廃れてゆくせいか、近頃はこの御札について「どのような御札なのか」と尋ねられる機会が以前より増えたように思えます。この御札の由来は平安時代中期に比叡山延暦寺を中興された良源(りょうげん。912−985。通称元三《がんざん》大師。諡《おくりな》は慈恵《じえ》大師)聖人によるものです。良源聖人はまた御在世の時から信仰の対象として当時の人々と深いつながりがあり、正確な史実のみならず伝説や化益物語がたくさん伝わっています。ここでは二種の御札の由来にまつわるお話を、管見で最も良くまとまった伝記として書かれていると思われる『元三大師』(故山田恵諦猊下著)から引用しご紹介させていただき、元三大師へのご関心とご信心を深めて頂ければと思います。
角 大 師
お大師さまが七十三歳になられた貞観二年(九八四)、御病気になられます少し前のことであります。常には静かな夜も、その夜ばかりは、簫々たる風雨で、心平かならないままに、ただ一人、居室に端坐して、止観を行じておられました。夜も更けたらしく、従僧や下男も眠りについたか、雨だれの音のみ、淋しう耳をうつばかりであります。不意に一陣の風が、颯っと室に入って来ましたので、禅定を出て御覧になりますと、残燈の影に、怪しい者が居りましたので、
「そこに居るは何者ぞ」
静かにおたずねにたりますと、
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しております。あなたもまた、これに罹られなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
「疫病の神となア、そうして私もまた、逃れられないとのこと、唯円教意、逆即是順という、何れのところにか逆境あらん、然し、因縁を逃れ得ぬもまた当然、止むを得まい、一寸、これに附いて見よ」左の小指をお出しになりました。厄神がそれに触れたかと思うと、全身忽ち発熱して、堪えがたい苦痛を覚えられましたので、心を寂静に澄し、円融の三諦を観じて、弾指せられました。厄神は弾き出され、伏しまろびながら逃げ失せ、お大師さまの苦痛は、忽ち恢復せられました。
お大師さまは、
「わずかに一指を悩めるさえ、このような苦しみを覚えるに、全身を侵された逃るる術を知らぬ人々は、何としても気の毒である。これは、一時も早く救わねばならない」
と思召され、夜の明けるを待ちかねて、弟子たちを呼び集められました。
「鏡を持って来てくれ、そうして、私がその鏡に姿を写すから、心ある者が、それを写し取ってくれよ」
弟子たちが運んで来ました、全身写しの大小判型の鏡の前に、座を占められまして、観念の眼を閉じ、静かに禅定に入られますと、不思議や、始めお大師さまの姿であったのが、だんだんと変りまして、最後には、骨ばかりの鬼の姿になりました。見ていたお弟子たちは、あまりの恐ろしさに、その場にひれ伏してしまいましたが、明普阿闍梨だけは、気丈な上に、既に閻魔の庁で獄卒を見ておりますし、絵心第一と不断から自負しておりましたので、恐るることなく、鏡を見ては画き、画いては鏡を見まして、残るところなくそれを写し取りました。禅定からお出ましなされたお大師さまが、これを御覧になりまして、満足に写しとれたという面持ちで、
「これでよい、これでよい、これを直ぐに版木におこし、お札に摺っておくれ」
お弟子たちが、版木に彫り、お札に摺り上げますと、お大師さま御自身で、開眼の御加持を施されて、
「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼りつけるように申しなさい。この影像のあるところ、邪魔は怖れて寄りつかないから、疫病はもとより、一切の厄災を逃るることが出来るのじゃ」
お札を頂いた家は、一人も流行病に罹りませんでしたし、病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい流行病も、たちまちに消え失せ、人々は安堵の思いを致しました。
このことがありましてから以来は、このお札を角大師と称えて、毎年、新らしきを求めては戸口に貼るようになりました。疫病はもとより、総ての厄災を除き、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来ませんので、どれほど御利益を頂いているか、計り知ることが出来ないのであります。それでありますから、日本全国、何れの宗派に属する寺院も、正月には、必ずこの影像を檀信徒に配布して、その年の厄災を防ぐような慣わしになりました。
魔滅(豆)大師
寛永年中のことでありました。河内の国寝屋川在の百姓某が田植も無事に終りましたので、日頃信仰している横川のお大師さまに豊作祈願に参詣して来ました、横川に到着いたしますと、先ず御廟に参詣しまして、
「今年もどうか、水の難、旱の難、風の難などの諸難を逃がれて、豊作を与え給え」
と刻の立つのも知らずに、熱心に祈願をこめ、夕方、大師堂に参詣してお通夜をさせて貰いました。
某が大師堂に入った頃から降り出した雨は次第に激しくなり、夜半よりは車軸を流す大豪雨となりました。某の部落は淀川ぞいの平地、少しの大雨にも水浸しになる土地であります。お通夜をしながら雨の様子を気にして居りましたが、
「この大雨では、また寝屋川は洪水であろう、折角田植もすんで一息ついたばかりだのに、植えた苗もろとも、田も流されてしまうのではないだろうか、家に居たらまた何とか仕ようもあるだろうに」
居ても立っても居たたまらぬ、いらいらした気持になり、執事の坊さまに苦衷を訴えますと、
「田作りの守護をして下さるお大師さまにお参りに来ていて、それは何をいうて御座るぞ、いまこそ一途にお大師さまにお祈りする時じゃないか」
執事の教示になるほどと気のついた某は、宝前に端坐して一生懸命にお祈りをしました。雨の音も耳に入らばこそ、『お助け下さい』の一念で、お経を誦し、み名を称えて信心を凝らしました。夜の明けるを待ちかねて、降りつづく大雨の中を走るようにして山を下り、道々の様子を注意しながら在所に急ぎました。京も過ぎ、八幡を通り、橋本の里を過ぐる頃には、大水の被害は段々と目に見えてまいります。
「この様子だと、自分の田も全部駄目じゃろう」
重い足をはげましながら、急ぎに急ぎまして漸く村の入口に近づきますと、村の人々は鍬や鋤を持って出て来て居りますが、何れも茫然として立って居ります。
「ああ、やっぱり駄目じゃ」
その時、一人の男が某を見つけて、詰るような叫び声を出して、
「おぬし、何処へ行っていたぞ、それにしても手廻わしよう、やりおったのう」
某は一向にその意味が分りません。
「それよりも私の田も駄目じゃろのう」
「何をいうているぞ、おぬしの田だけが助かっているのじゃ、それじゃからこそ、皆が手廻わしのよいやつと羨ましがっているのじゃ」
「そりやおかしい。私は叡山の横川にお参りしていたんじゃ、日がくれてからの大雨じゃろ、気が気でないが何ともしようがないので、明けるのを待って走って帰って来たばかりじゃ」
「それじゃ、おぬし、何にも知らぬのか、三十人余りの子供上りの若者が、手に手に桶や鍬を持って来てサ、畔をつくるやら、水を汲み出すやら、いやもうその働きの素早いこと、手際のよいこと、おぬしの田だけが苗の顔が見えていらア」
某が行って見ますと、その男の云った通り、濁水一面の中に自分の田だけが、ちゃんと苗の先が見えている。
「不思議なこともあるものよなア」
家に帰ると妻や子が、
「助かりました、助かりました、うちの田だけが助かったのじゃ」
嬉し泣きしながら、詳しうに話をします。
「肝心のお前さんは居てくれず、女や子供ではとてもとは思いながら、あれこれしていると、夜明け前の三時頃に何処から来たのか子供上りの若い衆が三十人あまり……」
執事に教えられて一生懸命にお大師さまにお縋がりした時刻に助け人が来たというのです。
「これはお大師さまの御たすけに違いない、早速、今一度お礼にお参りしてこよう」
引返して横川に参詣しまして、執事に事の由を申しますと、
「それはおぬしの誠心が届いたので、お大師さまがお助け下されたのでありましょう、お大師さまは観音さまの御化身じゃから、三十三身に做えて、三十三人の童子となってお救い下されたのじゃと思います」
このことがありましてから、三十三体のお大師さまのお姿を一枚に納められてあるお札を魔滅大師と申しまして、田の作りをお護り下さるお札として、田植が終り次第、竹の皮に包んで竹にはさみ、田ごとに立てるようになりました。
(2568.1.31)
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