閑人妄語2



11.9.11米国テロ事件に思う

 比叡山駐在布教中にこの事件を知りました。事件の詳細やその後の経過については多くの報道が為されておりここに繰り返すことは省きますが、改めてこの大変な事件に遭い命を落とされた方のご冥福を祈ります。また被害に遭われた関係者の方にはお見舞いを申し上げます。

 テロのような無差別殺人行為はどんな理由があろうと許されるものではありません。今回の事件を起こし、また計画・協力した者達は国際社会の協力によって追い詰め厳正に裁くことが必要です。ただし、報道で知るところでは米国を中心とした武力行使「報復」が主流となりつつあり、日本国も後方支援という形で参加を迫られ、政府もこれを進めるようです。果たしてこれは問題の真の解決になるのでしょうか。

 当事国の米国では14日に下院で武力行使を容認する決議を採択しましたが、1人の女性議員がこれに反対し「どのように困難な票決であってもわれわれのだれかが抑制させなければならない。われわれの行動が悪循環を呼び起こしコントロールがきかなくならないように、一歩さがってこの票決を考えよう」と訴えました。また16日発表の米NBCテレビとウォール・ストリート・ジャーナル紙の共同世論調査では米国民の81%が軍事報復に慎重な姿勢をとっているそうです。諸外国や日本国内からも軍事報復への懸念の声が挙がっています。
 テロに対して軍事報復は果たして有効なのでしょうか。歴史を見れば、イギリスにおける北アイルランド紛争ではイギリス政府が軍隊を投入して鎮圧を強化したところ、IRA(アイルランド共和主義軍団)のテロ行為は止みませんでした。パレスチナではイスラエルが自国の軍隊を投入し続けてもパレスチナ・ゲリラのテロは自爆テロなどより過激化しています。

 わたしは最澄様の御遺誡の一節を思い出しました。怨みを以て怨み対していては、それをいつまでも断つことが出来ない。まずは怨みの気持ちを収め歩み寄ることが大事である、と。

 米国が巨大な軍事力を行使したら、テロ組織以外にもどれほどの一般人が死傷するか想像も尽きません。その行為によってまた新たな怨みを持つ者が生まれ、怨みは新たな怨みを生んでゆきます。世界一の軍事力を背景にするからこそ、その行動には慎重さと自制を求めたいのです。ブッシュ大統領の演説では盛んに「自由」を守る、「正義」は勝つと主張しています。しかしそこには何故今回のテロを引き起こすような怨みを米国は持たれるのか、という自らを省みる姿勢は残念ながら見られませんでした。

 かつて日本は広島と長崎に2発の原子爆弾を落とされ、また各地の空襲により軍人・民間人・国籍を問わず多くの人々が戦争中とはいえ無差別に殺傷されました。しかし日本は日本国憲法第9条に示される平和主義を国是とし、軍備を増強して他国に報復するような道を選びませんでした。そのような国であるからこそ、日本は軍事力行使に追随するのではなく徹底的な仲裁者としての活動の条件があり、またそれが可能ではないでしょうか。仮に自衛隊が海を越えてイスラム原理主義「過激派」やタリバーンへの報復のお手伝いに行ったら、次は自衛隊も「怨み」の対象となり、ゲリラとの戦闘は避けられません。そうなれば最早平和主義の理念は踏みにじられてしまいます。

 事態はまだ流動的で今後どうなるかは不透明ですが、怨みによる対立感情が高まれば世界的な大戦への流れも否定できません。カトリック団体がブッシュ大統領への軍事力行使反対の声明を送ったそうです。仏教界や個々の仏教者も改めて自己のおしえに向かい合ってこの度の事件を捉え直す必要があると思います。

 末尾に最澄様の「御遺誡」の一節を掲げます。味読していただければ幸いです。

  以怨報怨怨不止。以徳報怨怨即盡。莫恨長夜夢裏事。可信法性真如境。
  怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。長夜夢裏の事を恨む莫れ。法性真如の境を信ずべし。

(2566.9.22)


12.「いただきます」のこころ

 秋田県雄物川町の雄物川北小学校の5年生の組で、「食と命の尊さ」を教えたいという担任の試みから、組で鶏を飼育して食肉として処理しその肉で子どもがカレーを作って食べることを計画したものの、反対する保護者から秋田県教育委員会に中止の要請があり、教育委員会からの指導で取り止めとなる事件がありました。

  ・アサヒコム
   「ニワトリ育てて食べる授業、残酷と中止に 秋田の小学校」
   「『命』教える難しさ 鶏飼育・処分授業中止」

またTBSラジオ番組「アクセス」でもこの問題を巡って意見が交わされました。

 光合成のような養分を自家生成する機能を持ち持ちあわせない限り、生きものは他の生きものを体内に取り込むことによってしか生命を永らえることは出来ません。そしてわたしたち人間はこの世の中の食物連鎖の頂点に居ます。ヒトはありとあらゆる生きものを食物とし、また生きものでないものまでも「食物」として食べています。中でもヒトと同じように動き本能的感情を顕わにする鳥獣類を食べることは、大きな宗教的・倫理的問題をはらんでいます。

 ヒトが共同体を構成し維持する上での行動原理として、おそらくあらゆる宗教における最重要点の一つであるきまりは「いのちの尊重」であり、仏教でいう「不殺生戒」であることは間違いないでしょう。ヒトに限らず草木に至るまでいたずらにそのいのちを奪うことは収穫や増産の減少=生活の危機を意味し、自身の存続を危うくするという本能的な経験則が発展し、文化的に神道や自然崇拝も含めての宗教原則として確立したといえましょう。

 先に述べたヒトが生きていく上で他の生きもののいのちを奪うことが必然である以上、単に「生きものを殺すな」ということとは矛盾します。古来より仏教徒の間では「何をどう食べるか」ということが問題とされました。

 現状はともかく一般の方は「仏教は原則として肉食(にくじき)が禁止されている」という半ば常識がありますが、実は初期の仏教徒は肉食は禁じられてはいませんでした。布施として与えられたものは何でもいただいていたのです。お釈迦様がお亡くなりになるきっかけとなった食中毒の原因は豚肉料理だったという有力説があるくらいです。この慣習は現在でも初期仏教の伝統を強く受け継ぐ東南アジアの仏教教団で行われています。

 しかし信者が布施のためとはいえ動物を殺し、修行者がその肉を与えられているのでは不殺生戒の精神からして疑いが生じます。そこで、「殺すところを見なかった肉」「布施のために殺されたと聞かなかった肉」「自分のために殺された疑いのない肉」は食べてもよいというきまりが出来ました。更にインドから中央アジアを経て中国・日本など東アジアに伝わった「大乗仏教」では慈悲(他者に利益や安楽を与える慈しみと、他者の苦に同情しこれを救おうとする思いやり)の精神に基いて一切の肉食を避ける傾向が強まり、やがてそれが更に徹底して肉食は一切してはならないことになったのです。

 さて全ての生けるものお互いが自分が一番大事であるという「生存への本能」ともいえる大原則がある以上、いのちの尊重は最大限に認められなければならないことですが、また生きものは食物連鎖の上にその存在が成り立っていることも厳然たる事実です。この双方の命題をどう両立させるか、それは「不殺生」はただ殺すなというだけではなく、いのちをいただく以上、そのいのちを自分のいのちとして存分に生かすということではないでしょうか。日常食事の前に言う「いただきます」という言葉の心は、正に頭上の頂に食べ物をさし上げる如くこの食事の為に尊いいのちをいただいた多くの動物や草木に感謝し、また「ごちそうさま」はこの食事が食卓に並ぶまでの間に費やされた多くの方々の労苦に感謝することにあります。そして多くのいのちと労苦の結晶をいただいたことに報いるために日々の己がやるべき良い行いに力を尽くす誓いを新たにするのです。

 この度の事件は様々な賛否両論が出され、関心の高さと現実におけるこの問題の扱いの難しさがあらわれています。かつてはトリやウサギなどを飼い、それを特別な日に食卓に供することがそう珍しくなかった時代がありました。これは単に「かわいそう」「残酷だ」という感情を超えたヒトと他のいきものの関係を感じ学ぶことが出来る文化の土壌があったわけです。そういったものが日常から失われた現在、かの担任の試みの主旨を否定するものではありませんが、よくよく児童や保護者との話し合いが必要であったのではないか、との思いです。

 この社会では食肉加工に携わる多くの方がいて、その方々のお陰でわたしたちは「いのちをいただくこと」の衝撃や重みを普段正面から受けずに済んでいるわけですが、その意識がどんどん希薄になって今の飽食の時代にどれほどの「いのち」が粗末にされているかは多くの言葉を要しません。まずはわれわれ大人達がこのことをしっかりと踏まえ日常の食事のあり方を自省し、食事をいただくことの意義を家族で話し合うことから始めるのが肝要でしょう。

(2566.11.16)


13.佛誕2567年年頭にあたって

 以下に今年出した年賀状の内容をご紹介し、「管理人の部屋」ご来訪の方々への私的な挨拶とします。

   閑人妄語

 あけましておめでとうございます。昨年中のご指導・ご鞭撻に御礼申し上げると共に、本年の皆様のご多幸を祈念いたします。
 キリスト暦でいうところの新世紀が始まり新たな希望を抱いたのも束の間、内外において目を覆わんばかりの惨事が続発したことは既にご承知の通りであります。特に昨年九月十一日の米国テロ事件はわたしがちょうど本山駐在布教中の出来事であり、事件以降の米国政府の事件への関与をみるにつけ、光定撰『傳述一心戒文』に残された天台宗宗祖最澄様のお言葉(いわゆる「御遺誡」)を想起するのです。

 以怨報怨怨不止。以徳報怨怨即盡。莫恨長夜夢裏事。可信法性真如境。
 怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。長夜夢裏の事を恨む莫れ。法性真如の境を信ずべし。


あのテロ事件の惨禍に巻き込まれた人々の家族の悲しみは察するに余りありますが、アフガニスタン市民を巻き込んだ報復爆撃によって亡くなり負傷した人々の様子を報道で見るに付け、復讐心や憎悪を超えた理性による対話を以て様々な人々が共存可能になるよう年頭に祈る所存です。

   佛誕二五六七年正月                  合掌

(2567.1.1)


14.「放生」は悪行なのか

 3月6日付『朝日新聞』朝刊の東京本社12版13面の企画記事「記者は考える」に「企画報道室・清水弟」の署名で「『放生』は善行なのか」という刺激的な題名の記事が載りました。目にした方も多いでしょう。ここでは放生(ほうじょう)の由来と本義を再確認し、放生が記事で問題とする行為への解決にどう資するかを考えてゆきたいと思います。

 朝日新聞の電網敷地に当該の記事が掲載されておらずURLをご案内できないので記事の概要をまず紹介します。

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 「北米原産のクロエリセイタカシギ」が「昨年9月、京都、滋賀で発見され」たため「日本野鳥の会会員らの調査」によると「奈良市に住む」人物が「10年ほど前、ドイツから輸入したクロエリセイタカシギが繁殖」したため「野生化や回帰の様子を」知りたい為に「実験的に放鳥」したのだということが明らかになったことが冒頭に紹介される。

 つぎに「仏教では捕らえた鳥や魚を逃がすことを放生と呼び、慈悲の行いとされる。放生会という儀式もある。」という説明が入り、台湾の大学副教授の調査では「台湾では寺院の7割で放生が行われて」いて「スズメと並んでよく放される東南アジア産のシロガシラが在来のクロガシラと交雑した灰色ガシラが各地で見つかり問題になっている。ささやかな善行のはずが、遺伝子かく乱まで引き起こすとなれば、放生は環境への罪ともなりかねない。」と続く。

 このような事態を受けて台湾では「動物を無許可で放すことを禁じ」た法律が施行されていて、「日本でも、動物愛護法で愛護動物の遺棄を禁じて」いることや、「日本は動物輸入大国で」、「移入種対策や在来種保護」のために「外来種対策の法制化を早急に進めるべきだ。」と主張している。

 「そんなに悪意はなくても」虫や魚などを勝手に放すことによる影響が出ていることを挙げ、「飼えなくなった犬や猫などを野に放すのがどんなに悪影響を与えるか。小さな身勝手が生態系にどれほど深刻な負担をかけるか――足元から見直すときが来ている。」と結ばれている。

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 放生が本来どのようなものかを確認しておきましょう。『[新版]仏教学辞典』(宝蔵館)によれば

 捕らえられている魚や鳥を買い取って池沼・山野に放つこと。これを行う法会を放生会といい、放って逃がす池を放生池という。金光明経巻四流水長者子品に、流水長者(るすいちょうじゃ)が瀕死の魚を救って水と食とを与え、また経を聞かせたので後に魚がみな天に生れたとある話や、梵網経巻下に、すべての生類はみなわが父母であるから殺したり食ったりすることなく放生せよ、と勧めているのに基づく。葬儀や法要などの時に鳥を放つのも同じ主旨であり、これを放鳥(ほうちょう)という。

そしてこの放生の思想を初めて実践されたのが中国天台宗の祖・天台智者大師でありました。大師修行の地・天台山の麓の人々は漁を生業とし、河や海にしかけをすると潮の干満で大小さまざまな魚類が獲れますが、これに伴い魚の死骸も山を為してハエやウジが大発生し、また魚の骨の山に船が乗り上げて転覆し死者が出るまでになりました。1146(西581・太建13)年大師は殺生を憐れんで衣や信者からの施物を売り水を堰き止める「やな」を購入してそこを放生池とし、更に各地で度々金光明経を講じたところ、陳の宣帝はそれらの「やな」のある池を放生池と勅命し、宣帝没2年後には放生池の碑が天台山国清講寺に建てられています。

 さて日本天台宗総本山である比叡山麓に広がる琵琶湖に放流されたブラックバスやブルーギルなどの外来肉食魚のもたらす甚大な被害についてはわたしも耳にしていました。また先の記事にあるような外来動物を放すことによる生態系破壊の影響被害はまことに深刻な問題です。が、これらは果たして放生に結び付けて考えるべきものなのでしょうか?

 経典にある由来や天台大師の故事にみられるように、本来の放生はいのちの大切さ・生きものへの慈しみという観点から為される行いであり、記事中にあるような精神の退廃による「小さな身勝手」とは正反対の行為です。台湾の寺院の例にあるような他の地域に住む鳥をわざわざ放生で放つことは改善すべきですが、それを引き合いに放生全般が悪行に繋がるかのような記者の捉え方はいかにも短慮です。

 飼育動物を個人の都合で捨てたり、釣りの趣味のために引きのいい獰猛な魚を河に放つこと、これらの行為は仏教で第一に克服するべきもの「エゴイズム」という自我に他なりません。自分さえよければいいというエゴは、そのために他の存在を侵す行為へと容易につながっていきます。記事で指摘されるような己がエゴと向き合いそれを正してゆくためには、金光明経や梵網経に示される、すべての生きもののいのちが同一地平にあることや、お互いが他のいのちをいただいていまに生かされていることの精神を再認識し、いろんなかたちで学んでいくことが求められます。

 日本各地の放生会の詳しいことは承知しておりませんし、台湾の寺院と同様の問題があれば生態系への影響を十分に踏まえて適宜改善が必要です。その点において記者の指摘は有益ですが、題名である「『放生』は善行なのか」という乱暴な物言いには既述の点を踏まえて「放生」は悪行なのかとこちらも一言反問しておきます。

(2567.3.8)


15.安楽死・尊厳死

 神奈川県川崎市の病院において、医師が喘息の入院患者を安楽死させようと筋弛緩剤を投与して死亡させた事件が起こりました。これに伴いマスコミで安楽死や尊厳死について取り上げることが増えています。事件そのものは安楽死以前の段階で問題があるようですが、この機会に安楽死・尊厳死をどうとらえるかをわたしなりに考えてみました。

 以下日立デジタル平凡社の『世界大百科事典』第2版によって予備知識を整理しておきます。まず安楽死の定義は「病者を苦痛から解放して安楽に死なせること」であり、次の4つの概念に分けられるそうです。

  (1)純粋の安楽死…死苦の緩和を目的としてモルヒネの投与が行われ,しかもそれが病者の生命の短縮を伴わないというような場合。
  (2)間接的安楽死…そのような措置が不可避的に病者の死期を若干早めるような場合。
  (3)不作為による安楽死…積極的な医療措置を講じても病者の死期をわずかしか延長できず,しかも,それによっていたずらに彼に苦痛を生じさせるにすぎないときに,その措置を行わない場合。
  (4)積極的安楽死…病者の生命を積極的に絶つことにより彼を死苦から解放する場合。本来の安楽死,ないし狭義の安楽死ともいう。

法的に細かい点を省けば原則として(1)(3)は合法であり、(2)(4)は違法となります。特に問題なのは(4)で、日本の法曹界ではこれまでに起きた(4)にあたる具体的諸事例については、「合法な安楽死であるとする主張を受け入れたことは一度もなく、いずれも殺人罪、あるいは嘱託殺人罪として有罪にしているが、合法な安楽死が存在する場合を否定してもいない」そうです。

 その中で、一般論として次のような6要件のもとでは安楽死は合法であるとした判例があります。(名古屋高裁1962年12月22日判決)。合理主義あるいは人道主義にもとづく学説から

  (1)病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病におかされ、その死が目前に迫っていること
  (2)病者の苦痛が見るに忍びないほど甚だしいこと
  (3)行為が病者の死苦の緩和を目的としていること
  (4)病者に意思表示能力がある場合には、その真摯(しんし)な嘱託・承諾があること
  (5)原則として医師がそれを行うこと
  (6)方法が倫理的にも妥当であること

の諸要件を導き出しています。ここで重要なのは(4)に示されるようにこの場合患者本人の意思は必ずしも必要ではないという点です。この判例においては安楽死の許容される根拠を「行為者の人道主義的動機」においているからです。

 これに対し患者の意思あるいは権利を重視する学説では、安楽死合法化の根拠を「その行為が、苦痛に満ちた短い生命よりは安らかな死を選ぶという病者の自律的な意思にもとづいているところに認められるべきだ」と主張しています。横浜地裁が1995年3月28日に下した判決ではこの見地に立ち「患者の現実的意思にもとづかない積極的安楽死は絶対に違法」だとしました。この立場からは積極的安楽死が合法となるためには

  (1)患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
  (2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
  (3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
  (4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示のあること

の4要件が必要になります。ここでははっきりと患者本人の意志確認を前提としていて、最近はこちらの考え方が主になりつつあるようで、そうなれば先の川崎市の病院の事件は明らかに問題です。

 また、これらに対し「安楽死としてではあれ、殺人行為の合法性を認めることは、人間の生命の絶対的保護という法の建前に反する」という安楽死違法論もあります。

 安楽死が「病者を苦痛から解放するところにあるのに対して、病者に人間としての尊厳を保持させることを目的とするのが尊厳死あるいは自然死」になります。つまり安楽死が回復し得ない終末期の状態にある病者に為されるのに対して、尊厳死は延命可能な状況下にある中で本人または周囲の関係者の意思によって臨終が作為的に為されるところが違ってきます。いわゆる植物状態患者についての議論はその典型です。安楽死・尊厳死について他にも重要な点がいくつもありますが、より詳しくは関連の書籍や電網敷地などをご参照下さい。

 さて始めに戻り、安楽死・尊厳死については予め定められたいくつかの要件を満たせば容認する向きが世界的に少しずつ広がりつつあるように見えます。オランダでは「患者の明確な要請がある」などの要件を満たした場合、安楽死を完全に合法とする法案が可決されました。また安楽死・尊厳死に反対する意見も多く出されており、この問題を主題として扱った書籍は山のようにあります。論点は多々挙げられますが、ここでは自己決定に絞って簡潔に言及します。

 「生き死にについては、各人の自己決定に任せるのが良い」これはこれで一つの有力な考え方でしょう。死を望んだ当事者が、決定について他人がどうこう言うのはおせっかいだとはねつければ、周囲のそれ以上の働きかけは余計なお世話になるでしょう。しかしここには死という決定的な不可逆性を持つ行為をそう簡単に割り切って良いものかという強い疑念があります。個人の財産や所有物は自由に処理でき、仮に意に反してそれを失ったり損失してもその代替物を再び求めることができます。では命とそれを維持する肉体の機能は、個人の財産や所有物のように自らの意志で自由に処理するのが適当でしょうか。

 わたしはこの点について否だと考えます。自分の肉体や命は自分のものだと何となく考えている人は少なくないでしょうが、これらは個人の財産や所有物と違って自らが稼いだり、作り出したりしたものではありません。両親によってこの世に産み落とされたことは事実でしょうが、ではすべての個人はそれぞれの両親のものでしょうか。奴隷制度下などと違い、人は基本的にすべて平等であるという考えに立つ以上人同士が所有・被所有の関係になることはありませんから、これも違います。

 仏教では全ての存在は様々な縁(因果関係)よって種々の要素が仮に和合してそこに現れているに過ぎないという「縁起説」の立場をとります。先ほど述べたようなある男と女の巡り会いという縁からすべての人がこの世に現れ出たという事実があるだけで、各人の命と肉体は誰の所有物でもないし、その人自身のものでさえもありません。あえて仏教の見地からその存在の拠り所・意義を強引にまとめるなら、その人の命と肉体はこの世の大宇宙のいのちそのものであるほとけ(如来)の一部が変化してあらわれたもので、その命と肉体はほとけの智慧に則っていのちを全うするために管理を付託された、とでもいえましょうか。

 命と肉体が個人のものではない以上、自殺は当然認められませんし、死刑も同様です。仏教徒でなくとも、社会的に全ての人の権利行使をなるべく平等に保とうとし、またそのための調整もなるべく等しく運用していくという原則にたつならば、他人がある人の命の長短を恣意的に決めることはそれを歪めることになります。

 人は健康でありたい、少しでも長生きしたいという欲望がありますし、それ自体を持つなということは無理なことでしょう。しかしこの欲望は生者必滅という絶対の真理とまともに相反します。ですが特に医療が未発達な時代(わりと最近まで)はそれは全く現実味のない欲望でしたから、さほど大きな問題にはなりませんでした。ある程度の年齢を重ねたり、重病になれば文字通り覚悟を決めて死を迎えるよりほかになかったのですから。しかし近年の医療の進歩はこれを変えつつあります。様々な不妊治療・遺伝子治療・臓器移植・出産前の胎児の遺伝子調査・精子や卵子の売買等々、時間とカネをかければ病気や命への悩みや欲望は次々と満たされていきます。

 特に死という極めて個人的かつ不可避な問題をどうとらえるかは様々で、現実には画一的な解はありえないでしょう。が、先ほどから述べているような主に仏教的な原則・理念の点から、複雑な事情があるにせよ他者によって安楽死させられたり、自殺や尊厳死のように自らの判断で断ってよい命があるというような考え方は、わたしには納得しかねるのです。

(2567.4.27)


16.佛誕2568年年頭にあたって

 久しく更新が滞っていた「閑人妄語2」でした。関心を失っていたのではなく、むしろあまりにいろいろなことがありすぎて、何か一つのことをじっくりと捉え考えをまとめにくかったのです。今年はわたしに限らず広く一般に大きな影響を及ぼしそうな懸案事がありますので、今年の年賀状を以下のような文面で出しました。

   閑人妄語

 あけましておめでとうございます。昨年中のご指導・ご鞭撻に御礼申し上げると共に、本年の皆様のご多幸を祈念いたします。
 さて昨年は天台宗一隅を照らす運動群馬大会が開催され、瀬戸内寂聴師の講演がありました。わたしは瀬戸内師が講演の終わりの部分で、宗教者の平和への働きかけを強く訴えていたところが非常に印象に残りました。

 昨今国会の場では武力攻撃事態法など有事三法案が継続審議されております。郷土出身の福田官房長官は昨年七月二四日に衆院有事法制特別委員会の質疑で、武力攻撃事態での国民の権利制限についての政府見解を示し、このなかで「思想、良心、信仰の自由が制約を受けることはあり得る」として、思想や信仰を理由に自衛隊への協力を拒否することが認められないケースがあるとの考えを明らかにしています。変化する国際情勢の中、国の軍事や防衛の在り方は大いに議論されて良いですが、再び宗教者が「人を殺せと教えよや」とならぬようにしたいものです。傳教大師の教戒「口に麁言無く、手に笞罰せず」を胸に諸民族不戦和合を祈る正月です。

   佛誕二五六八年正月                  合掌

(2568.1.9)

17.米国のイラク攻撃に対する天台宗および仏教各宗派など宗教界の主な動き


 現在、米国はイギリスなどと共にイラクへの武力攻撃を行おうとしています。イラクに対する国連の大量破壊兵器についての査察が進行中であり、米国を中心として安全保障理事会に提出されようとしている「最後通牒」的武力行使容認決議案は、理事会の常任理事国ほか複数の国々の反対によって可決されるかどうか不透明です。

 マスコミによって伝えられるイラクについての報道を見るかぎり、国内に住むクルド人への弾圧など、フセイン大統領の統治に問題があることが窺えます。しかし、それらの問題点を口実にイラクへ攻め入ることが許されるかどうかは全く別の問題です。2月15日には全世界600以上の都市で1千万人以上の人々が米英による対イラク戦争に反対する行動に参加しました。連日世界各地から反戦平和の声が挙がっています。世界の人々がイラク攻撃により多くの一般市民が犠牲になることを見抜き、引き起こされる多くの悲しみに思いを馳せています。

 宗教界でも世界のキリスト・イスラム、そして仏教の信徒が非戦と平和のために声を挙げ、行動しています。信奉する対象は異なれど、ほとけや神の教えに基づき、お互いが殺し殺されることなく、平安な日々を共有するべく。

 仏教ほか宗教界の声や動きを伝え、わたしとみなさん一人一人が平和のために出来ることを実行するための心の糧として、世界の人たちと同じ思いを共有し勇気を分かち合っていければ幸いです。

釈尊曰わく
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(『真理の言葉−ダンマパダ−』)

傳教大師曰わく
怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。長夜夢裏の事を恨む莫れ。法性真如の境を信ずべし。(『伝述一心戒文』)


 以下は順不同です。各記事の掲載機関はそれぞれの掲載電網敷地の管理に依りますので、結縁切れの際はご容赦下さい。またここに挙げた以外の記事が電網上の報道にありましたら電便にてお寄せ下さい。
  1. 天台宗
    炎よ高く 平安と幸福の祈り込め 比叡山で大護摩供法要(京都新聞・3月13日)
    イラク問題 平和解決を 天台宗の宗議会が決議(しんぶん赤旗・3月4日)
    天台宗 平和解決願い決議 イラク問題(京都新聞・2月27日)
    瀬戸内寂聴師声明「反対! イラク武力攻撃」

  2. 天台寺門宗
    天台寺門宗が決議 武力行使に断固反対(しんぶん赤旗・3月2日)

  3. 浄土真宗大谷派
    イラクへの武力行使に反対する声明を表明(2月28日)

  4. 臨済宗妙心寺派
    臨済宗妙心寺派第一〇三次定期宗議会『世界各地で起きている紛争等に対し、平和的手段による解決を望む宣言』(2月21日)

  5. 曹洞宗
    わたしたちは平和的解決を強く求めます「イラクにおける大量破壊兵器問題の平和的解決を求める決議文」および趣旨文(2月28日)

  6. 世界宗教者平和会議(WCRP)
    イラク危機の平和解決を願う緊急集会「宗教者祈りの集い」声明文(2月22日)
    宗派超え「平和解決を」 イラク問題 比叡山に集い声明(しんぶん赤旗・2月22日)
    宗派を超え 戦争の回避を祈り 延暦寺で21教団が緊急集会(京都新聞・2月20日)

  7. 全日本仏教会
    日本仏教者の非戦・平和への願い(2月14日)

  8. 新日本宗教団体連合会(新宗連)
    新 宗 連 イラク情勢の平和的解決求める要望書 福田官房長官に手渡す(3月14日)

  9. 立正佼成会
    いのちのおもさは、みんないっしょ!イラク問題の平和的解決を目指して

  10. 日本キリスト教協議会
    イラク攻撃反対の世界の動き(WCC behind the News19号より)

  11. 日本聖公会
    日本聖公会東京教区正義と平和協議会「イラク危機に関する声明」(2月28日)

  12. カトリック中央協議会
    イラク問題の平和的解決についての日本司教団声明(2月21日)

  13. バチカン(ローマ教皇庁)
    イラク戦闘開始にバチカン「深い苦悩」表明(3月20日)

  14. 日本カトリック正義と平和協議会
    イラク攻撃についての各声明


(2568.3.22初出。5.12こちらへ移項)

18.盗人の横行・・・盗みへの戒めを考える


 窃盗事件が多発しています。思慮分別の未熟な未成年と違い、主役は大人です。不景気な時代ですが他人のものを盗んでいいはずもなく、また経済的に困窮した人ばかりが盗みに手を染めるわけでもないようです。

 9月20日付け朝日新聞は社会面に「ホームセンター 大人の万引き レジ脇堂々」の大見出しと「高額商品 カートに載せ『かご抜け』」「1店被害1年間で1千万円の例」の小見出しで被害額の大きさ・手口の悪質さ・犯罪者の高齢化を明らかにし、群馬版では「ブドウ泥棒よ、農家の思い知れ」と題して窃盗被害農家の痛切な心情を伝え、また同紙23日付けは茨城発「畑ドロ、農家ピリピリ」「ヤミ販売、プロ関与?」という記事で農作物窃盗被害の状況を詳しく扱っています。無住の寺荒らしも頻発しており、23日未明には滋賀県西浅井町大浦の腹帯観音堂に安置されていた傳教大師御作と伝えられる十一面観音菩薩像が盗難に遭ってしまいました。

 問題を考えるにあたり、具体例として以下20日付け朝日新聞群馬版の記事を引用します。個人名のみ一部伏せ字にしてあります。

 「ブドウを盗むと10年以下の懲役に処せられます。大切な人生を狂わせないでください」
 ブドウ畑沿いの道ばた。カラフルな文字や、泥棒が手錠をかけられたイメージ写真を載せたA4判ほどの工夫を凝らした看板が並んでいた。
 高級ブドウが旬を迎えている吉岡町で、「ぶどう泥棒対策」のパトロールに同行した。細い網の目状になった道を、小倉ぶどう組合員のトラックがゆっくり走る。
 「見慣れない車がとまっていたり、ゆっくり走っていると要注意」と組合長のO林M彦さん(56)。あるブドウ畑では、防風用のナイロン製の網が何者かに切り裂かれ、風に揺れていた。
 小倉ぶどう組合では、全国で農作物の盗難が相次いでいるのを受け、7月下旬から渋川署と協力して24時間態勢で不定期のパトロールを始めた。今年はまだ被害はないが、これまでほぼ毎年被害が出ていたため、気は抜けない。
 小倉地区でブドウ畑を営む女性(83)は数年前、被害にあった。早朝、畑へ行くと、両脇に箱を抱えた40代ぐらいの小柄な男が慌ただしく出てきた。箱詰めのブドウだけでなく、売店のテレビまで盗まれたという。「悲しいから思い出したくもない。この年になっても、人を頼んで何とか続けているのに」。今も男の車のナンバーをはっきりと覚えている。
 ブドウは手塩にかけて育てられる。1日10〜14時間、畑で作業をするO林さんは「目をつぶれば一本一本、ブドウの枝の広がりが浮かぶ」という。それぞれの木に「色がよくつく」「形は悪いが甘い」などの特徴がある。「いい実ができると、もぐだけでうれしくなる。わが子みたいなもんだ」と目を細める。
 数年前に被害にあったO林さんは、犯人を捕まえようと夜明け前から張り込みをしたこともある。しかしその一方で、地面に散乱するブドウの粒を見て「そこまでするなら、せめて持って帰ってきれいに食べてほしい」とやるせない気持ちになったという。
 泥棒対策に力を入れる人たちの、怒りを通り越したブドウへの愛情をかいま見て、正直、その愛情の深さに驚いた。「気まずい気持ちで食べてもおいしくないと思う」とつぶやいたO林さんの言葉が重く残った。

 なぜこんなにも大人の盗みが増えたのか?わたしは先に挙げた記事中の「レジ脇堂々」というくだりに見られる如く盗みについての内心の規範(戒め)が軽んじられ、喪失してしまったことが大きいと考えます。改めて盗みという行為について考えてみましょう。

 仏教においても釈尊在世時から盗みに対しては厳しい戒めが説かれました。(春秋社刊『中村元選集〔決定版〕』第17巻参照)

 『村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、  かれを賤しい人であると知れ。』(『スッタニパータ』第119偈。岩波文庫版33頁)

 『じつに僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、  かれを賤しい人であると知れ。』(同第121偈。同上)

 『次に教えを聞く人は、与えられていないものは、何ものであっても、またどこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ。また(他人をして)取らせることなく、(他人が)取り去るのを認めるな。なんでも与えられていないものを取ってはならぬ。』(同第395偈。82頁)

 5、6百年ほど後に成立した仏教の百科全書ともいえる『大智度論』第13巻釈初品中戒相義第二十二之一には盗みについて詳しい議論が示されています。以下の邦訳は上記『選集』第21巻からの孫引きです。

  (1)盗みの罪
 『与えられない物を取る(=盗み)というのは、他人の物だと知りながら、盗みの心を生じて、物をもとあったところから離して、その物をわれに属させること  これを〈盗み〉と名づける。もしもそのようなことをしないならば、これを〈不盗〉と名づける。そのほかの手段、計算、ないし手をもっていまだその物の存在するところからその物を離さないならば、それを〈盗みを助けることがら〉と名づける。財物に二種類ある。他人に属するものと、他人に属さないものとがある。他人に属するものを取るのは、〈盗みの罪〉となる。他人に属する物にもまた二種類がある。第一は、集落のうちにあるもの、第二は空地にあるものとである。この二種の物を盗心をもって取れば、〈盗みの罪〉となる。もしも物が空地に置かれているならば、「この物はどの国に近いか」ということをよく調べて検討すべきである。もしもこの物がだれかに所属するということを知ったならば、取ってはならない。戒律の書の中に種々の〈不盗〉を説いている。これが〈不盗〉の特質である。』

  (2)不盗の利益
 『問うていわく。〈不盗〉にはどのような利があるのか。
 答えていわく。人命には二種類ある。第一は内的な生命であり、第二は外的な生命である。もしも〔他人の〕財物を奪うならば、これは外的な生命を奪うのである。なんとなれば、〔人間の〕命は、飲食物、衣類などによって生き続けていくことができるからである。「劫(こう)」(かすめとる)であろうとも、「奪」(うばう)ことであろうとも、これは〔人間の〕外的な生命を奪うことであると名づける。昔の詩句に説かれているとおりである。
  「一切の人々は、衣食によって自ら生きている。それを奪い、あるいはかすめ取るならば、それは命をかすめ取り奪うことであると名づける。」
 それゆえに、智慧のある人はかすめ取ったり奪ったりしてはならない。
 また次に、よく考えよ。かすめ取ったり奪ったりして、そのものを得て、自分の用に供したならば、自分の身は充ち足りるけれども、その人は必ず死ななければならない。死んでからは地獄に入る。〔自分の死後に〕家族や親族たちは共に楽を受けるけれども、自分ひとりが〔地獄で〕罪の報いを受けるのである。家族や親族もその人を救うことができない。このように感ずることができたならば、〔人は〕盗んではならない。』

  (3)二種の盗み
 『また次にこの〈与えられないものを取る〉ということにも二種類ある。ひとつには偸(こっそりと盗むこと)、二には劫(力ずくで盗むこと)である。この二つはともに、〈与えられないものを取ること〉と名づける。〈与えられないものを取ること〉のうちでは、「〔意識してわざと〕盗む」のが最も罪が重い。なんとなれば、すべての人々は、財によってみずから生活しているからである。しかるに、こっそりとくすねて盗み取るならば、これは最も不浄である。なんとなれば力がなくて勝れた人でも、死後のことを恐れるからである。なんとなれば〔他人のものを〕盗み取るからである。ゆえに力ずくで奪い、あるいは力によらないで奪う中でも、盗みの罪が最も重い。詩句に説かれているとおりである。
  「たとい身が痩せさらばえて、過去の罪の報いとして大いなる苦しみを受けることがあっても、他人のものに触れてはならない。たとえば大きな火(ほ)むらに触れてはならないようなものである。もしも他人の物を盗み取るならば、その所有者は泣き、悶え悩む。たとえ神々の王などでも、やはり苦しみを受けることになる。」
 殺生をする人の罪は重いけれども、〔殺す下手人は〕殺される人にとってだけ賊なのである。ところが盗む人は、財産をもっているすべての人にとって賊なのである。もし他の戒を犯しても、若干の外国においては、罪とならないことがある。ところが盗みをする人は、一切の国々において処罰されるのである。』
(以上『選集』266〜269頁)

 (2)と(3)を念頭に置きつつ先程の引用記事を見てみます。

 盗んだ人はそれによって「自分の身は充ち足りるけれども」、それは盗まれた人の「命をかすめ取り奪うことである」ことをしっかりと心に刻み込んでおくべきです。なぜなら「〔人間の〕命は、飲食物、衣類などによって生き続けていくことができるから」であり、それを盗むことの罪深さを内なる規範として保つべきです。

 また、農家にとって手塩にかけて育てた作物はそれこそ「わが子みたいなもの」であり、わが身の分身でありましょう。それをかすめ取ったり奪ったりすれば、農家の人々の心は「泣き、悶え悩む」のです。万引き被害に遭うホームセンターに勤める人々も同じ気持ちでしょう。まさに「盗む人は、財産をもっているすべての人にとって賊」であります。よって『スッタニパータ』に説くように「(他人をして)取らせることなく、(他人が)取り去るのを認めるな」の戒めを併せて理解する必要があります。

 現在進行中の窃盗多発事態に対するより緊急かつ実効的な措置については別に考えなければなりませんでしょうが、盗むことについての一つの仏教的知見を提示してみました。皆さんも考えてみて下さい。

   [追伸]
 封建制・身分制の江戸時代や、第二次世界大戦敗戦前の天皇制近代社会と違い、現代のわたしたちは「これに従っていればひとまず安心」というような強力な社会的規範に縛られることはありません。現代は思想及び良心・信教の自由な時代です。それは大切なことなのは勿論ですが、自由な社会は優勝劣敗が支配する競争社会でもあります。努力と才能と少々の運があれば成功し豊かになれる可能性を秘める反面、それらに恵まれない人々はなかなか救われません。自由な社会を望む以上、これは必然であり皆が受け入れなければならない現実です。建前は自由平等であっても現実は不平等であり、大多数は一握りの成功者の下に甘んじなければならない。

 しかしそこで成功者を妬んだり、自分より劣る境遇の人を蔑んだり、ましてや戒めを投げ捨て殺しや盗みなどの悪行を犯すのはやはり愚かなことです。どのような生き方を選ぼうとも、より良く生きようと思えば少なくとも自分を律し、他者との関係を調整するための内なる規範を持たねばならないでしょう。限りある人生、自らの規範の下で「能く言い能く行う」(天台宗祖・傳教大師最澄さまのお言葉)ことでしか現状は変えられない。そのための手がかりや指針が仏典の中には無尽蔵の如く詰まっています。
(2568.9.26)

19.自衛隊のイラク派兵に反対します


 日本政府は12月9日に安全保障会議と臨時閣議を開き、自衛隊のイラク派兵基本計画を決定しました。小泉首相の会見をテレビ報道でご覧になった方は多いと思います。これによって戦後初めて戦闘地域への自衛隊派兵が行われることが現実となりそうです。自衛隊派兵についてわたしはその信条および政治的知見から認めることはできません。

 仏教の根本戒律は「不殺生(殺すな)」です。一人一人の生存の尊重と保障を前提とせずしていかなる活動も成り立ちません。テロも空爆もいかなる理由をつけようと殺された人にとって何ら正当性を持ち得ないことは明らかであり、殺された日本人外交官2名も数千のイラク人もその命のかけがえのなさにおいて等価の存在です。「外交官の死を無駄にしない」「テロに屈さず、テロとの戦いを進める」とのもっともらしいことを述べつつ戦闘服を着て武器を携行した兵員による「人道復興支援活動」など本末転倒であり、武器ではなく生活用品や工具を手にし、戦闘服ではなく普段着を着て市民と接することこそ真の平和的支援でありましょう。米軍のお先棒を担いで他国の人民に武器を向けるようなことがあってはなりません。

 イラクの混沌の原因は誰がもたらしたのでしょう。未だに見つからない「大量破壊兵器」の危険を口実に、あらゆる最新の大量破壊兵器を使って他国の国土を爆撃し政権を崩壊させ、多数の市民を殺傷したのが米英であり、それに追従しているのが日本国政府です。森住卓氏豊田直巳氏らの報道写真家が伝えるイラク市民の現状を見聞すると、いかに米英の振る舞いに道理無く、人々に悲しみと怒りが渦巻いているかがわたしにも分かります。

 自爆テロで殺された人はもちろん、テロという選択をし命を散らした実行者も悲しい。しかし実行者はなぜそこまで追いつめられたのでしょう。だれが好きこのんで自爆テロをするでしょうか。いまこそ平和的手段をもってテロを生む原因を改め、被害市民との対話を進めなければなりません。


  怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。

 ・参考

  イラク問題の平和的解決を願う決議文(天台宗)

  自衛隊のイラク派遣の即時中止を求める要請文ほか(浄土真宗本願寺派)

  イラクへの自衛隊派遣に関する宗務総長コメント(浄土真宗大谷派)

  イラクに平和が訪れることを祈る日蓮宗の声明(日蓮宗)

  世界平和を願う曹洞宗の祈りと誓い―過ちは繰り返しません―(曹洞宗)

  自衛隊のイラク派遣に対する要望書(新日本宗教団体連合会)

  自衛隊イラク派遣に対する意見書(立正佼成会)
(2568.12.10初出。2569.03.19こちらへ移項。2569.04.03更新)

20.追悼・青島幸男


 久々の更新です。ええ、はっきり言って放置してました(苦笑)。加齢と共に身辺もだんだん慌ただしくなり、以前ほど電網敷地の更新に情熱を傾けられなくなったのが実のところです。これも諸行無常ということで。

 以下今年の年賀状に書いた一文をもってご来訪各位への年頭挨拶といたします。今年もよろしくおつきあい下さいませ。m(__)m


 あけましておめでとうございます。昨年中のご指導・ご鞭撻に御礼申し上げると共に、本年の皆様のご多幸を祈念いたします。
 昨年十二月二十日、青島幸男氏が七十四歳で逝去しました。青島氏と年代の違うわたしが氏の訃報に感慨を受けたのは、ハナ肇とクレイジー・キャッツ(植木等)が歌ってヒットした一連の無責任ソングの作詞が青島氏であったことによります。あの歌の数々を聴いた時は衝撃を受けました。
 高度経済成長時代、何よりも働いて収入を増やし生活を豊かにすることがよしとされた時代に、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」(『ドント節』)と言ってのけたこの視点とセンスはどうでしょう。公害や環境破壊を押しのけて突き進む経済至上の大合唱の中、サラリーマンの心中に溜まった不安や鬱屈や不満を「肩の力を抜こうよ」と詞として掬い上げ、正のエネルギーに転換し爆発的な支持を受けた、その慧眼恐るべし、です。
 一般的には「不真面目」や「いい加減」を否定し「真面目」を賞賛するでしょうが、真面目さは力を注ぐ方向を誤ると悲惨なことになります。かつて洋の東西で大戦を指揮した指導者は揃って超が付く真面目人間だったようです。真面目人間が「大義」をかざして他者を迫害してしまう。
 生命維持の実相である免疫系や代謝の仕組みは、さほど厳密ではなく柔軟かつしなやか、融通無碍なものらしい。釈尊の「琴の教え」の如く、青島氏の詞のようにスラスラスイスイスイの自然体でいきたいものです。
合 掌
   佛誕二五七二年正月
(2572.01.13)



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