比叡山駐在布教中にこの事件を知りました。事件の詳細やその後の経過については多くの報道が為されておりここに繰り返すことは省きますが、改めてこの大変な事件に遭い命を落とされた方のご冥福を祈ります。また被害に遭われた関係者の方にはお見舞いを申し上げます。
テロのような無差別殺人行為はどんな理由があろうと許されるものではありません。今回の事件を起こし、また計画・協力した者達は国際社会の協力によって追い詰め厳正に裁くことが必要です。ただし、報道で知るところでは米国を中心とした武力行使「報復」が主流となりつつあり、日本国も後方支援という形で参加を迫られ、政府もこれを進めるようです。果たしてこれは問題の真の解決になるのでしょうか。
当事国の米国では14日に下院で武力行使を容認する決議を採択しましたが、1人の女性議員がこれに反対し「どのように困難な票決であってもわれわれのだれかが抑制させなければならない。われわれの行動が悪循環を呼び起こしコントロールがきかなくならないように、一歩さがってこの票決を考えよう」と訴えました。また16日発表の米NBCテレビとウォール・ストリート・ジャーナル紙の共同世論調査では米国民の81%が軍事報復に慎重な姿勢をとっているそうです。諸外国や日本国内からも軍事報復への懸念の声が挙がっています。
テロに対して軍事報復は果たして有効なのでしょうか。歴史を見れば、イギリスにおける北アイルランド紛争ではイギリス政府が軍隊を投入して鎮圧を強化したところ、IRA(アイルランド共和主義軍団)のテロ行為は止みませんでした。パレスチナではイスラエルが自国の軍隊を投入し続けてもパレスチナ・ゲリラのテロは自爆テロなどより過激化しています。
わたしは最澄様の御遺誡の一節を思い出しました。怨みを以て怨み対していては、それをいつまでも断つことが出来ない。まずは怨みの気持ちを収め歩み寄ることが大事である、と。
米国が巨大な軍事力を行使したら、テロ組織以外にもどれほどの一般人が死傷するか想像も尽きません。その行為によってまた新たな怨みを持つ者が生まれ、怨みは新たな怨みを生んでゆきます。世界一の軍事力を背景にするからこそ、その行動には慎重さと自制を求めたいのです。ブッシュ大統領の演説では盛んに「自由」を守る、「正義」は勝つと主張しています。しかしそこには何故今回のテロを引き起こすような怨みを米国は持たれるのか、という自らを省みる姿勢は残念ながら見られませんでした。
かつて日本は広島と長崎に2発の原子爆弾を落とされ、また各地の空襲により軍人・民間人・国籍を問わず多くの人々が戦争中とはいえ無差別に殺傷されました。しかし日本は日本国憲法第9条に示される平和主義を国是とし、軍備を増強して他国に報復するような道を選びませんでした。そのような国であるからこそ、日本は軍事力行使に追随するのではなく徹底的な仲裁者としての活動の条件があり、またそれが可能ではないでしょうか。仮に自衛隊が海を越えてイスラム原理主義「過激派」やタリバーンへの報復のお手伝いに行ったら、次は自衛隊も「怨み」の対象となり、ゲリラとの戦闘は避けられません。そうなれば最早平和主義の理念は踏みにじられてしまいます。
事態はまだ流動的で今後どうなるかは不透明ですが、怨みによる対立感情が高まれば世界的な大戦への流れも否定できません。カトリック団体がブッシュ大統領への軍事力行使反対の声明を送ったそうです。仏教界や個々の仏教者も改めて自己のおしえに向かい合ってこの度の事件を捉え直す必要があると思います。
末尾に最澄様の「御遺誡」の一節を掲げます。味読していただければ幸いです。
以怨報怨怨不止。以徳報怨怨即盡。莫恨長夜夢裏事。可信法性真如境。
怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。長夜夢裏の事を恨む莫れ。法性真如の境を信ずべし。
秋田県雄物川町の雄物川北小学校の5年生の組で、「食と命の尊さ」を教えたいという担任の試みから、組で鶏を飼育して食肉として処理しその肉で子どもがカレーを作って食べることを計画したものの、反対する保護者から秋田県教育委員会に中止の要請があり、教育委員会からの指導で取り止めとなる事件がありました。
・アサヒコム
「ニワトリ育てて食べる授業、残酷と中止に 秋田の小学校」
「『命』教える難しさ 鶏飼育・処分授業中止」
またTBSラジオ番組「アクセス」でもこの問題を巡って意見が交わされました。
光合成のような養分を自家生成する機能を持ち持ちあわせない限り、生きものは他の生きものを体内に取り込むことによってしか生命を永らえることは出来ません。そしてわたしたち人間はこの世の中の食物連鎖の頂点に居ます。ヒトはありとあらゆる生きものを食物とし、また生きものでないものまでも「食物」として食べています。中でもヒトと同じように動き本能的感情を顕わにする鳥獣類を食べることは、大きな宗教的・倫理的問題をはらんでいます。
ヒトが共同体を構成し維持する上での行動原理として、おそらくあらゆる宗教における最重要点の一つであるきまりは「いのちの尊重」であり、仏教でいう「不殺生戒」であることは間違いないでしょう。ヒトに限らず草木に至るまでいたずらにそのいのちを奪うことは収穫や増産の減少=生活の危機を意味し、自身の存続を危うくするという本能的な経験則が発展し、文化的に神道や自然崇拝も含めての宗教原則として確立したといえましょう。
先に述べたヒトが生きていく上で他の生きもののいのちを奪うことが必然である以上、単に「生きものを殺すな」ということとは矛盾します。古来より仏教徒の間では「何をどう食べるか」ということが問題とされました。
現状はともかく一般の方は「仏教は原則として肉食(にくじき)が禁止されている」という半ば常識がありますが、実は初期の仏教徒は肉食は禁じられてはいませんでした。布施として与えられたものは何でもいただいていたのです。お釈迦様がお亡くなりになるきっかけとなった食中毒の原因は豚肉料理だったという有力説があるくらいです。この慣習は現在でも初期仏教の伝統を強く受け継ぐ東南アジアの仏教教団で行われています。
しかし信者が布施のためとはいえ動物を殺し、修行者がその肉を与えられているのでは不殺生戒の精神からして疑いが生じます。そこで、「殺すところを見なかった肉」「布施のために殺されたと聞かなかった肉」「自分のために殺された疑いのない肉」は食べてもよいというきまりが出来ました。更にインドから中央アジアを経て中国・日本など東アジアに伝わった「大乗仏教」では慈悲(他者に利益や安楽を与える慈しみと、他者の苦に同情しこれを救おうとする思いやり)の精神に基いて一切の肉食を避ける傾向が強まり、やがてそれが更に徹底して肉食は一切してはならないことになったのです。
さて全ての生けるものお互いが自分が一番大事であるという「生存への本能」ともいえる大原則がある以上、いのちの尊重は最大限に認められなければならないことですが、また生きものは食物連鎖の上にその存在が成り立っていることも厳然たる事実です。この双方の命題をどう両立させるか、それは「不殺生」はただ殺すなというだけではなく、いのちをいただく以上、そのいのちを自分のいのちとして存分に生かすということではないでしょうか。日常食事の前に言う「いただきます」という言葉の心は、正に頭上の頂に食べ物をさし上げる如くこの食事の為に尊いいのちをいただいた多くの動物や草木に感謝し、また「ごちそうさま」はこの食事が食卓に並ぶまでの間に費やされた多くの方々の労苦に感謝することにあります。そして多くのいのちと労苦の結晶をいただいたことに報いるために日々の己がやるべき良い行いに力を尽くす誓いを新たにするのです。
この度の事件は様々な賛否両論が出され、関心の高さと現実におけるこの問題の扱いの難しさがあらわれています。かつてはトリやウサギなどを飼い、それを特別な日に食卓に供することがそう珍しくなかった時代がありました。これは単に「かわいそう」「残酷だ」という感情を超えたヒトと他のいきものの関係を感じ学ぶことが出来る文化の土壌があったわけです。そういったものが日常から失われた現在、かの担任の試みの主旨を否定するものではありませんが、よくよく児童や保護者との話し合いが必要であったのではないか、との思いです。
この社会では食肉加工に携わる多くの方がいて、その方々のお陰でわたしたちは「いのちをいただくこと」の衝撃や重みを普段正面から受けずに済んでいるわけですが、その意識がどんどん希薄になって今の飽食の時代にどれほどの「いのち」が粗末にされているかは多くの言葉を要しません。まずはわれわれ大人達がこのことをしっかりと踏まえ日常の食事のあり方を自省し、食事をいただくことの意義を家族で話し合うことから始めるのが肝要でしょう。
以下に今年出した年賀状の内容をご紹介し、「管理人の部屋」ご来訪の方々への私的な挨拶とします。
閑人妄語
あけましておめでとうございます。昨年中のご指導・ご鞭撻に御礼申し上げると共に、本年の皆様のご多幸を祈念いたします。
キリスト暦でいうところの新世紀が始まり新たな希望を抱いたのも束の間、内外において目を覆わんばかりの惨事が続発したことは既にご承知の通りであります。特に昨年九月十一日の米国テロ事件はわたしがちょうど本山駐在布教中の出来事であり、事件以降の米国政府の事件への関与をみるにつけ、光定撰『傳述一心戒文』に残された天台宗宗祖最澄様のお言葉(いわゆる「御遺誡」)を想起するのです。
以怨報怨怨不止。以徳報怨怨即盡。莫恨長夜夢裏事。可信法性真如境。
怨みを以て怨みに報ぜば、怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち尽く。長夜夢裏の事を恨む莫れ。法性真如の境を信ずべし。
あのテロ事件の惨禍に巻き込まれた人々の家族の悲しみは察するに余りありますが、アフガニスタン市民を巻き込んだ報復爆撃によって亡くなり負傷した人々の様子を報道で見るに付け、復讐心や憎悪を超えた理性による対話を以て様々な人々が共存可能になるよう年頭に祈る所存です。
3月6日付『朝日新聞』朝刊の東京本社12版13面の企画記事「記者は考える」に「企画報道室・清水弟」の署名で「『放生』は善行なのか」という刺激的な題名の記事が載りました。目にした方も多いでしょう。ここでは放生(ほうじょう)の由来と本義を再確認し、放生が記事で問題とする行為への解決にどう資するかを考えてゆきたいと思います。
朝日新聞の電網敷地に当該の記事が掲載されておらずURLをご案内できないので記事の概要をまず紹介します。
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「北米原産のクロエリセイタカシギ」が「昨年9月、京都、滋賀で発見され」たため「日本野鳥の会会員らの調査」によると「奈良市に住む」人物が「10年ほど前、ドイツから輸入したクロエリセイタカシギが繁殖」したため「野生化や回帰の様子を」知りたい為に「実験的に放鳥」したのだということが明らかになったことが冒頭に紹介される。
つぎに「仏教では捕らえた鳥や魚を逃がすことを放生と呼び、慈悲の行いとされる。放生会という儀式もある。」という説明が入り、台湾の大学副教授の調査では「台湾では寺院の7割で放生が行われて」いて「スズメと並んでよく放される東南アジア産のシロガシラが在来のクロガシラと交雑した灰色ガシラが各地で見つかり問題になっている。ささやかな善行のはずが、遺伝子かく乱まで引き起こすとなれば、放生は環境への罪ともなりかねない。」と続く。
このような事態を受けて台湾では「動物を無許可で放すことを禁じ」た法律が施行されていて、「日本でも、動物愛護法で愛護動物の遺棄を禁じて」いることや、「日本は動物輸入大国で」、「移入種対策や在来種保護」のために「外来種対策の法制化を早急に進めるべきだ。」と主張している。
「そんなに悪意はなくても」虫や魚などを勝手に放すことによる影響が出ていることを挙げ、「飼えなくなった犬や猫などを野に放すのがどんなに悪影響を与えるか。小さな身勝手が生態系にどれほど深刻な負担をかけるか――足元から見直すときが来ている。」と結ばれている。
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放生が本来どのようなものかを確認しておきましょう。『[新版]仏教学辞典』(宝蔵館)によれば
捕らえられている魚や鳥を買い取って池沼・山野に放つこと。これを行う法会を放生会といい、放って逃がす池を放生池という。金光明経巻四流水長者子品に、流水長者(るすいちょうじゃ)が瀕死の魚を救って水と食とを与え、また経を聞かせたので後に魚がみな天に生れたとある話や、梵網経巻下に、すべての生類はみなわが父母であるから殺したり食ったりすることなく放生せよ、と勧めているのに基づく。葬儀や法要などの時に鳥を放つのも同じ主旨であり、これを放鳥(ほうちょう)という。
そしてこの放生の思想を初めて実践されたのが中国天台宗の祖・天台智者大師でありました。大師修行の地・天台山の麓の人々は漁を生業とし、河や海にしかけをすると潮の干満で大小さまざまな魚類が獲れますが、これに伴い魚の死骸も山を為してハエやウジが大発生し、また魚の骨の山に船が乗り上げて転覆し死者が出るまでになりました。1146(西581・太建13)年大師は殺生を憐れんで衣や信者からの施物を売り水を堰き止める「やな」を購入してそこを放生池とし、更に各地で度々金光明経を講じたところ、陳の宣帝はそれらの「やな」のある池を放生池と勅命し、宣帝没2年後には放生池の碑が天台山国清講寺に建てられています。
さて日本天台宗総本山である比叡山麓に広がる琵琶湖に放流されたブラックバスやブルーギルなどの外来肉食魚のもたらす甚大な被害についてはわたしも耳にしていました。また先の記事にあるような外来動物を放すことによる生態系破壊の影響被害はまことに深刻な問題です。が、これらは果たして放生に結び付けて考えるべきものなのでしょうか?
経典にある由来や天台大師の故事にみられるように、本来の放生はいのちの大切さ・生きものへの慈しみという観点から為される行いであり、記事中にあるような精神の退廃による「小さな身勝手」とは正反対の行為です。台湾の寺院の例にあるような他の地域に住む鳥をわざわざ放生で放つことは改善すべきですが、それを引き合いに放生全般が悪行に繋がるかのような記者の捉え方はいかにも短慮です。
飼育動物を個人の都合で捨てたり、釣りの趣味のために引きのいい獰猛な魚を河に放つこと、これらの行為は仏教で第一に克服するべきもの「エゴイズム」という自我に他なりません。自分さえよければいいというエゴは、そのために他の存在を侵す行為へと容易につながっていきます。記事で指摘されるような己がエゴと向き合いそれを正してゆくためには、金光明経や梵網経に示される、すべての生きもののいのちが同一地平にあることや、お互いが他のいのちをいただいていまに生かされていることの精神を再認識し、いろんなかたちで学んでいくことが求められます。
日本各地の放生会の詳しいことは承知しておりませんし、台湾の寺院と同様の問題があれば生態系への影響を十分に踏まえて適宜改善が必要です。その点において記者の指摘は有益ですが、題名である「『放生』は善行なのか」という乱暴な物言いには既述の点を踏まえて「放生」は悪行なのかとこちらも一言反問しておきます。
神奈川県川崎市の病院において、医師が喘息の入院患者を安楽死させようと筋弛緩剤を投与して死亡させた事件が起こりました。これに伴いマスコミで安楽死や尊厳死について取り上げることが増えています。事件そのものは安楽死以前の段階で問題があるようですが、この機会に安楽死・尊厳死をどうとらえるかをわたしなりに考えてみました。
以下日立デジタル平凡社の『世界大百科事典』第2版によって予備知識を整理しておきます。まず安楽死の定義は「病者を苦痛から解放して安楽に死なせること」であり、次の4つの概念に分けられるそうです。
(1)純粋の安楽死…死苦の緩和を目的としてモルヒネの投与が行われ,しかもそれが病者の生命の短縮を伴わないというような場合。
(2)間接的安楽死…そのような措置が不可避的に病者の死期を若干早めるような場合。
(3)不作為による安楽死…積極的な医療措置を講じても病者の死期をわずかしか延長できず,しかも,それによっていたずらに彼に苦痛を生じさせるにすぎないときに,その措置を行わない場合。
(4)積極的安楽死…病者の生命を積極的に絶つことにより彼を死苦から解放する場合。本来の安楽死,ないし狭義の安楽死ともいう。
法的に細かい点を省けば原則として(1)(3)は合法であり、(2)(4)は違法となります。特に問題なのは(4)で、日本の法曹界ではこれまでに起きた(4)にあたる具体的諸事例については、「合法な安楽死であるとする主張を受け入れたことは一度もなく、いずれも殺人罪、あるいは嘱託殺人罪として有罪にしているが、合法な安楽死が存在する場合を否定してもいない」そうです。
その中で、一般論として次のような6要件のもとでは安楽死は合法であるとした判例があります。(名古屋高裁1962年12月22日判決)。合理主義あるいは人道主義にもとづく学説から
(1)病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病におかされ、その死が目前に迫っていること
(2)病者の苦痛が見るに忍びないほど甚だしいこと
(3)行為が病者の死苦の緩和を目的としていること
(4)病者に意思表示能力がある場合には、その真摯(しんし)な嘱託・承諾があること
(5)原則として医師がそれを行うこと
(6)方法が倫理的にも妥当であること
の諸要件を導き出しています。ここで重要なのは(4)に示されるようにこの場合患者本人の意思は必ずしも必要ではないという点です。この判例においては安楽死の許容される根拠を「行為者の人道主義的動機」においているからです。
これに対し患者の意思あるいは権利を重視する学説では、安楽死合法化の根拠を「その行為が、苦痛に満ちた短い生命よりは安らかな死を選ぶという病者の自律的な意思にもとづいているところに認められるべきだ」と主張しています。横浜地裁が1995年3月28日に下した判決ではこの見地に立ち「患者の現実的意思にもとづかない積極的安楽死は絶対に違法」だとしました。この立場からは積極的安楽死が合法となるためには
(1)患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示のあること
の4要件が必要になります。ここでははっきりと患者本人の意志確認を前提としていて、最近はこちらの考え方が主になりつつあるようで、そうなれば先の川崎市の病院の事件は明らかに問題です。
また、これらに対し「安楽死としてではあれ、殺人行為の合法性を認めることは、人間の生命の絶対的保護という法の建前に反する」という安楽死違法論もあります。
安楽死が「病者を苦痛から解放するところにあるのに対して、病者に人間としての尊厳を保持させることを目的とするのが尊厳死あるいは自然死」になります。つまり安楽死が回復し得ない終末期の状態にある病者に為されるのに対して、尊厳死は延命可能な状況下にある中で本人または周囲の関係者の意思によって臨終が作為的に為されるところが違ってきます。いわゆる植物状態患者についての議論はその典型です。安楽死・尊厳死について他にも重要な点がいくつもありますが、より詳しくは関連の書籍や電網敷地などをご参照下さい。
さて始めに戻り、安楽死・尊厳死については予め定められたいくつかの要件を満たせば容認する向きが世界的に少しずつ広がりつつあるように見えます。オランダでは「患者の明確な要請がある」などの要件を満たした場合、安楽死を完全に合法とする法案が可決されました。また安楽死・尊厳死に反対する意見も多く出されており、この問題を主題として扱った書籍は山のようにあります。論点は多々挙げられますが、ここでは自己決定に絞って簡潔に言及します。
「生き死にについては、各人の自己決定に任せるのが良い」これはこれで一つの有力な考え方でしょう。死を望んだ当事者が、決定について他人がどうこう言うのはおせっかいだとはねつければ、周囲のそれ以上の働きかけは余計なお世話になるでしょう。しかしここには死という決定的な不可逆性を持つ行為をそう簡単に割り切って良いものかという強い疑念があります。個人の財産や所有物は自由に処理でき、仮に意に反してそれを失ったり損失してもその代替物を再び求めることができます。では命とそれを維持する肉体の機能は、個人の財産や所有物のように自らの意志で自由に処理するのが適当でしょうか。
わたしはこの点について否だと考えます。自分の肉体や命は自分のものだと何となく考えている人は少なくないでしょうが、これらは個人の財産や所有物と違って自らが稼いだり、作り出したりしたものではありません。両親によってこの世に産み落とされたことは事実でしょうが、ではすべての個人はそれぞれの両親のものでしょうか。奴隷制度下などと違い、人は基本的にすべて平等であるという考えに立つ以上人同士が所有・被所有の関係になることはありませんから、これも違います。
仏教では全ての存在は様々な縁(因果関係)よって種々の要素が仮に和合してそこに現れているに過ぎないという「縁起説」の立場をとります。先ほど述べたようなある男と女の巡り会いという縁からすべての人がこの世に現れ出たという事実があるだけで、各人の命と肉体は誰の所有物でもないし、その人自身のものでさえもありません。あえて仏教の見地からその存在の拠り所・意義を強引にまとめるなら、その人の命と肉体はこの世の大宇宙のいのちそのものであるほとけ(如来)の一部が変化してあらわれたもので、その命と肉体はほとけの智慧に則っていのちを全うするために管理を付託された、とでもいえましょうか。
命と肉体が個人のものではない以上、自殺は当然認められませんし、死刑も同様です。仏教徒でなくとも、社会的に全ての人の権利行使をなるべく平等に保とうとし、またそのための調整もなるべく等しく運用していくという原則にたつならば、他人がある人の命の長短を恣意的に決めることはそれを歪めることになります。
人は健康でありたい、少しでも長生きしたいという欲望がありますし、それ自体を持つなということは無理なことでしょう。しかしこの欲望は生者必滅という絶対の真理とまともに相反します。ですが特に医療が未発達な時代(わりと最近まで)はそれは全く現実味のない欲望でしたから、さほど大きな問題にはなりませんでした。ある程度の年齢を重ねたり、重病になれば文字通り覚悟を決めて死を迎えるよりほかになかったのですから。しかし近年の医療の進歩はこれを変えつつあります。様々な不妊治療・遺伝子治療・臓器移植・出産前の胎児の遺伝子調査・精子や卵子の売買等々、時間とカネをかければ病気や命への悩みや欲望は次々と満たされていきます。
特に死という極めて個人的かつ不可避な問題をどうとらえるかは様々で、現実には画一的な解はありえないでしょう。が、先ほどから述べているような主に仏教的な原則・理念の点から、複雑な事情があるにせよ他者によって安楽死させられたり、自殺や尊厳死のように自らの判断で断ってよい命があるというような考え方は、わたしには納得しかねるのです。
久しく更新が滞っていた「閑人妄語2」でした。関心を失っていたのではなく、むしろあまりにいろいろなことがありすぎて、何か一つのことをじっくりと捉え考えをまとめにくかったのです。今年はわたしに限らず広く一般に大きな影響を及ぼしそうな懸案事がありますので、今年の年賀状を以下のような文面で出しました。
閑人妄語
あけましておめでとうございます。昨年中のご指導・ご鞭撻に御礼申し上げると共に、本年の皆様のご多幸を祈念いたします。
さて昨年は天台宗一隅を照らす運動群馬大会が開催され、瀬戸内寂聴師の講演がありました。わたしは瀬戸内師が講演の終わりの部分で、宗教者の平和への働きかけを強く訴えていたところが非常に印象に残りました。
昨今国会の場では武力攻撃事態法など有事三法案が継続審議されております。郷土出身の福田官房長官は昨年七月二四日に衆院有事法制特別委員会の質疑で、武力攻撃事態での国民の権利制限についての政府見解を示し、このなかで「思想、良心、信仰の自由が制約を受けることはあり得る」として、思想や信仰を理由に自衛隊への協力を拒否することが認められないケースがあるとの考えを明らかにしています。変化する国際情勢の中、国の軍事や防衛の在り方は大いに議論されて良いですが、再び宗教者が「人を殺せと教えよや」とならぬようにしたいものです。傳教大師の教戒「口に麁言無く、手に笞罰せず」を胸に諸民族不戦和合を祈る正月です。