以前お伺いしたお宅の小学生のお嬢さんから受けた質問です。いきなり難問です(^^)。
坊さんが黒い衣を着るのは、インドで制定された『四分律』というきまりに「衣の色は青・黒・木蘭の壊色(えしき)」と定められているように、かなり昔からの制度のようです。壊色は純色でないくすんだ色で、坊さんの着ける「袈裟(けさ)」の語はもともと壊色の意味でした。後に黒の壊色に似たものとして墨で染めた衣が用いられ、転じて僧の代名詞ともなりました。
さて、では一般での着用の由来は?こちらはどちらかの善知識に教えを請わねばなりませんが、わたしが考えうることとしては
仏壇とは字の如く仏を招待する壇場です。天武天皇は家毎に仏壇を設置するよう勅命を出したといわれます(685年)。当時の言葉では佛舎と称し、仏像と経巻だけを安置しました。
そこに先祖又は父母の位牌を合祀するようになった根拠は『雑宝蔵経』二巻に「もし、諸々の賢聖及び仏を供養せんと欲せば、すなわち父母に供養せよ……如来は父母を恭敬したまえり」と在るからと思われます。よって本来仏壇には、仏像が主で位牌は従なのです。またその時の仏壇の位置は今の床の間に当たります。家の中で最も尊い場所に相応しい位置が選ばれました。
火気を扱ったりするので、目の届きやすく手を合わせやすい場所であれば方位にきまりはありません。古くは「迷わなければ本来東西なし、なんぞ南北あらんや」と云われます。方位に迷うことはありません。
本来、本尊仏を祀る壇が仏壇ですから、そこに先祖を合祀する以上姓の違いは問題ではありません。
一般に仏式の葬儀を執り行った場合、故人の方には仏の弟子として戒名(法名)が付けられています。死後に生前の姓の違いを云々することは全く無意味です。仏壇に祀る以上それだけの縁が有る方ですし、戒を守る仏弟子同士が争うなどと考えるのもおかしなことです。信仰について、まず己を正して惑わされぬ信仰でありたいものです。
墓石については人が良いという建て方に従うのがよろしかろうと思いますが、様々な制約のある中で、全てに理想的な墓を建てることは不可能でしょう。割り当ての場所で自分の懐具合を考えて無理をしない範囲で建てるべきでしょう。
方位については問2にも触れましたが、方位は人間が定めたもので生活便宜上の事です。それに殊更に吉凶を求め苦しむことはありません。以上を前提とした上で、一般でいわれる方位については、家でもそうですが南面するのが良しとされていますが東向きも良しとされています。これらは日照の関係でしょう。西向きは西方浄土を望んで良しとします。北向の墓は拝むとき南面しますので決して悪くはありません。
地形的には前が低く開けている方が良く、後は高くなっている方が良いとされます。これは背山腹水という攻防上の戦術的条件からきています。方位だけでなく地形との関係や通路との関係で向きはおのずと決まってくるもので、こだわる事は良くありません。
建て方・型式などについては時代によって変遷があり、流行もあります。故人の心の平安を祈念し、工事の安全を祈って着工し、心を込めて開眼入仏供養をした墓がなんで子孫にたたるでしょうか、心配は無用です。
良い墓とは、多くの人にお参りしてもらえる墓が良い墓です。その為には子孫繁栄が条件です。墓を親族の心の拠所として、強い絆とし協力して皆で栄えることが出来ればこれが墓の功徳です。
人は幸福を望んでも、不幸を絶対に避けることは出来ません。「禍福は糾える縄の如し」ともいいます。不幸の原因が墓相だけにあるというのなら墓を立て直せば不幸は来ないはずですが、墓を建て直せば不幸は絶対にやって来ないのか、といえばそんな保証はありません。保証の無い以上、先に述べた如くしっかりと気持ちをもって故人の冥福を祈り、今日明日の生活の心の支えとすべきでしょう。
追善とは生きている者が先に亡くなった親・兄弟・先祖の霊のため、善根功徳を修め積んで先亡の霊にその善根功徳を回し向け諸々の苦を除き、菩提心を増進せしめ、その冥福を願うことをいいます。
『望月佛ヘ大辭典』に「経に曰く、もし父死して、すでに餓鬼中に随し、子、ために追福せば、まさに知るべし、すなわち成佛を得ん」とあります。死者の冥福のために、死者の有縁の遺族が後から善事を修し積んでそれを回し向けるのです。
「どんな良いことがあるか」には、『灌頂経』十一に「この人、亡者のために善根を修すれば七分の中一を得るとするなり」とあり、そして「残りの七分の六の功徳は追善をした生者の得る所」とあります。
このように、追善の功徳の七分の六は追善供養をした人のところに帰ってくるとされています。これを追善の応報といいます。古来追善の法事を怠り無く行う家は栄えるといわれているのはこの事を指します。追善功徳の大部分をなおあの世から子孫にもたらす先祖に感謝し供養につとめましょう。
ブッダが教えを説かれたことについて、『妙法蓮華経』に「衆生に仏知見を示さんと欲するがゆえに世に出現したまう」とあります。
すべてのほとけの教え(経典)は人々にほとけの悟りを得させるために説かれたものである。だから先に亡くなった人の霊にもブッダの代理として経典を読んで聞かせ、成佛を得させようとするのであります。と同時に一座の遺族・親族・関係者にもほとけの教えを悟らしめて、信仰に励むようにするためでもあります。むしろ今ではこの方が主なねらいでもありましょう。
またお経の意味が分からずとも「法門は毛孔より入って遠く菩提の縁となる」といわれています。経の声を耳に感じ、皮膚の毛孔より入っても因縁となり、成佛の種になる。これを下種結縁といいますから、例えば居眠りをしても良いから法要の座に出ることが大切だとされています。
お盆は正しくは盂蘭盆(うらぼん)といいます。これは「ullambana(ウランバーナ)」という古いインドの言葉を漢字で当てたものです。その意味は「逆さに吊るされるような苦痛」ということで、人が生きているとき、少しでも人に迷惑を掛けたり、良くないことをしたりしてしまうのが常で、絶対に過ちを犯さない人はいません。この罪を死後に問われるのだ、という考え方があります。つまり死後の裁きという考え方で、地獄の責め苦を受けるなどともいいます。
けれど大切な人を、死んだからといって見過ごせませんね。そこで年に一度、このお盆の期間に「先祖の霊や、餓鬼道で苦しんでいるものの霊の為に回向してあげよう」というのがお盆の意味です。
お盆は旧暦の7月13日から16日までの4日間とされていますが、今では月遅れといって8月に行われることが全国では多いようです。
お盆が近づくと、お墓の掃除をし、盆棚(精霊<しょうりょう>棚)を飾り、13日にお墓と菩提寺をお参りし、門口で迎え火を焚きます。14・15日は皆でお棚をお参りし、先祖の方々の好物やおはぎを供えます。身近な方やお世話になっている家の新盆のお棚にもお参りに回ります。16日は精霊送りといって、門口で送り火を焚いてお墓にお参りします。
一般的にはこのような形でお盆の行事が行われますが、所によって様々な習慣があります。精霊流しや、京都大文字焼きなどもこの一つです。お盆の期間にお坊さんにお棚の前で読経してもらうことも一般的です。
お盆の話は『盂蘭盆経』というお経の中に、お釈迦様の弟子の一人である目連(もくれん)が餓鬼道に堕ちた母親の苦しみを救うために、雨季の学習期間(夏安居…げあんご)を終えた日(7月15日に当たる)に佛・僧に食物を捧げたお話として出てきます。わたしたちの心の中にある欲望を象徴したのが餓鬼道の世界です。何かにとらわれ、しがみつき、悩み、苦しんでいる姿こそ、餓鬼の姿でありましょう。知らず知らずのうちにわたし達は餓鬼道に入り込んで、満たされぬ欲望に苦しみ悩んでいるのです。その姿を正しい教えによって(正法)によって見極める。大切な反省の期間としてお盆の意義は大きいはずです。先祖の供養と申しますが、自分を取り戻す貴重な機会でもあるのです。正しい生き方を求める拠所として、お盆の行事をよくかみしめてまいりましょう。
避けて通れないのが、お金にかかわる事柄です。お寺さんへの御礼としては、一般には市販の祝儀袋を用います。
御斎とは、一般にはわたし達が先祖の年忌・回忌を営むとき佛事に参加された親戚知人に供養する食膳のことをいいます。
その由来はいくつか考えられますが、この世で一番重要で尊厳なものは生命であり、その生命を保ち増徴するものは飲食です。よってどの様に飲食を保つかは重要な関心事でした。
まず問7にある盂蘭盆会供養の故事に因るところがあります。また一説に、お釈迦様を囲んで佛弟子達が食事を摂った慣習に倣って、先祖及び父母精霊を中心として佛事に来席した人に食事を供養するようになったともいいます。
社会では食事を共にすることは重要な意義があり、ただ食事時であるから御斎を出すという儀礼的なものに留まらず、本来「供養させていただく」という積極的なものです。また御斎の供養を受ける側も楽しく頂いて、故人の想い出など話し合い親戚知友の絆を深めて連帯感を高め、助けあっていこうという気持ちを育てることが大切です。
佛教の法事はインドに於いて生じ、中国を経て日本に広まり、今日のように初七日から三十三回忌までの十三佛事の型になってきました。
深い縁で結ばれていた人との永遠の別れをいつまでも惜しむ気持ちと、一日も早く佛様の世界に導かれて安らかになって欲しいという気持ちが一つとなって、形の整った法事となったのでしょう。
供養というのは、お釈迦様やその教団に飲食物や衣服を捧げることから始まったといわれています。様々な供養のかたちがありますが、