坂東観音霊場十五番・十六番札所参拝記(1)
明治維新の頃までの旅は交通路や移動手段が未発達でかつ道中の安全は保障されておらず、また人々は長期に亘って気楽な旅に出られるようなお金と余暇を得られる時代ではありませんでした。それでも江戸時代になり幕府の鎖国政策と封建・身分制支配の確立により社会が一応の安定期に入ると人々にも収入の蓄えをする余裕が生じ、それを生かすために関所などの移動の制約を受けつつも『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に代表される遠方への旅をする風習が一気に広まってゆきます。
坂東三十三ヵ所観音霊場が成立したのは鎌倉時代の初頭で、平安時代末期に成立した西国三十三ヵ所観音霊場を模したものです。将軍源頼朝の観音信仰を契機としたともいわれます。三十三という数字は観世音菩薩の徳を讃えた『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)』に説かれる、衆生が困難に遭遇したとき観世音菩醍(観音)を念ずれば、三十三種の姿に身を代えて現れ即座に苦しみから救ってくれる、という一節から来ています。
さて、このような巡礼の旅がなぜ盛んになったのか、それは
・幾多の僧侶による布教教化によって、経典に説かれるほとけ(特に菩薩)の人々を救済するためのはたらきが多くの人々の知るところとなった。
・繰り返す天災・戦乱・飢饉などが、あまりに儚く思うようにならないこの世の在りよう(諸行無常)を人々に感じさせた。
・輪廻や業の思想により、自分が前世から背負ってきた罪を仏の力によって消除しようとする滅罪の意識を持つようになった。
・そのうえで到達できる極楽往生への願望(往生思想)を思い抱くようになった。
などが要因として挙げられます。巡礼者たちは仏の力にすがりながら自分自身の苦行によってこれらを内容づけながら、みずからの救いを求めて霊場を辿ったのでありました。
時代は移りモノやカネは豊かになっても人々のこころの不安・悩みは変わりません。現在は個人の信条や活動の自由が最大限保障されるようになった反面、社会の枠組みや人間関係から受け継がれてきた規範や通念や経験則などが断絶し、一人一人が試行錯誤して己の身の律し方・処し方を見つけ行動しなければなりません。依るべきものが無いのはある意味良く生きるのが大変な時代ともいえるのです。
現在巡礼がブームといわれています。巡礼に向かう動機は様々です。一時日常を離れ古人に倣い有名無名の寺寺を巡ることで、今日明日か或いはいつかその人の心の中のほとけの種を芽吹かせ、花を咲かせるでしょう。
暑さ戻った八月の下旬、心身の洗濯を思い立ち地元の観音札所二カ寺を参拝しました。
十五番札所長谷寺の案内(「坂東札所会」の敷地内)
坂東十六番札所 五徳山 水澤観世音
坂東札所会
坂東観音霊場については他にも多くの関連電網敷地がありますのでご参照下さい。
当日前橋はこの夏一番の暑さを記録しました(摂氏37度超)。熱中症対策で水分補給のため小休止。ちなみにミニストップのベルギーチョコソフトクリームは個人的に一押しです(^o^)。
前橋市内から榛名山系を望む。いい天気です。そして暑いです。
道中で見つけた珍しい交差点名「フランシスコ前」。察するに何かキリスト教関係施設に由来するのかもしれませんがざっと周囲を見渡すもそれらしい建物は見当たらず。謎です。
道中で気になる古いお堂を発見。
向かって左側の小さいお堂(観音堂か)裏に「重要文化財 真福寺境内の石神仏群」の柱があり、ここが真福寺という寺院であることが分かりました。ただし住む人は無く、大きいお堂(庫裏と思われる)の内部は荒れ果てています。
小さいお堂も大分痛みが激しいものの一部戸板が新しく交換されていて、現在も祭られ続けているようです。お堂の正面上に、観世音菩薩に奉る歌を詠んだ西群馬郡の山口某によって明治十九年に奉納された額が掛けられていました。
箕郷町から榛名町へ進むと、前方に寺院が見えてきました。
駐車場から道を挟んで向こう側が境内。寺名は「ちょうこくじ」と読みます。
参道入り口から仁王門を眺める。左手木立の木陰が涼を与えてくれます。
仁王門から見た境内。正面は観音堂で右手に納経所、手前は鐘楼。
観音堂全景。中で『観音経』一巻を読誦させて頂きました。
納経所の浜名師とお嬢さん。暑い中お勤めご苦労様です。お嬢さんはテレビヒーローの武器のおもちゃをブンブン振ってご機嫌でした。
その2に続く
(2568.8.25)
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