問11.合掌にはどの様な意味があるのですか?

 「いただきます」と合掌して食事を摂る子どもの姿は可愛いものです。ところが成長するに従って合掌しなくなる場合が多い。何故でしょうか。大人の世界で合掌が忘れられているからです。

 タイ航空やインド航空の客室乗務員さんは、乗客が乗り込むと合掌と微笑みで迎えてくれます。慣れない人はまごつくほどですが、この姿は素晴らしく印象に残ります。

 合掌とは両手の掌を合わせ、心から尊敬の気持ちを表現するしぐさです。相手への敬意を表し、敬う気持ちを形に表しているのですから、目上の人やお客様に対して合掌することは正しいことです。

 合掌にも色々な種類が在ります。

など十余種の合掌があるといわれ、様々な宗教の礼拝などに用いられています。

 合掌の意味としては「右ほとけ 左我ぞと 合わす手の 中にゆかしき 南無の一声」という古歌を紹介しましょう。

 インドでは古くから右手は清浄・左手は不浄とされてきました。右手を用いて食事をし、左手を使って用を足します。この使い分けは厳しく守られます。そこから、右手は清浄・神聖・真理・ほとけを表し、左手は不浄・世俗・煩悩・衆生を表します。この両手を合わせるところに人間の本当の姿・真実をみるのです。

 心から相手を尊敬する形・信頼の表現として、この素晴らしい合掌の習慣を、もっともっと日常生活の上に用いてゆきたいものです。
(『群馬天台』より)


問12.五七日(三十五日)や七七日(四十九日)まで家の中に祭壇を飾り亡者を供養する訳を教えてください。また「『三月がかり』になるから四十九日を繰り上げなさい」といわれましたがどういうことですか?

 生きているものは、受胎してから生まれ、死に、次に生まれ変わるまでに四つの過程(有り方)があるとされ、これを「四有」といいます。

  1. 生有…受胎した瞬間
  2. 本有…生を受けてから死ぬまでの間
  3. 死有…死ぬ瞬間
  4. 中有…死後、次に生まれる処が定まるまで
この中で、中有(「中陰=ちゅういん」ともいう)に当たるのが七七日までの期間です。経の中で種々の説がありますが、一般に七日を単位として七回まで、即ち四十九日までには必ず次の生を受ける場が定まって来るといわれます。従ってその日まで特別に壇を飾り、故人の為に遺族が供養を繰り返し善福を回向して、その功徳によってより良い所に生まれ変わらせたいと願うのだ、とされています。

 また、死者は生前の生き方によって、七日毎に十王(亡者の生前の行いの善悪を裁く10人の王)の裁きを受ける。人は誰もが煩悩を有する故に、罪を犯さずにはいられない。従って、七日毎の供養により幾分なりともその罪を軽くするよう努めるのだ、ともいいます。

 中有の終わりには、五七日または七七日の供養を営みます。五七日は十王の中でも最有力の閻魔王の審判があります。今日では十三佛中の地蔵尊を本尊に迎えて法要を行います。七七日は薬師如来が本尊です。故人が永い死出の旅路に旅立たれるには、心や体の病を救ってくれるこの佛に導いてもらうねらいがあるのです。これを満中陰(まんちゅういん)の法要といいます。

 「三月がかり」の起こりは、お産のために実家に帰った嫁さんが婚家に帰りたがらず、嫁ぎ先での和合に障害が起るのを避けるため、生まれた子に苦労が身に付く=三月=との語呂合わせで、早く婚家に帰るよう仕向けた言葉です。

 家族のため一生を生き抜いた故人を、一番思い出深い我が家に一日も長く置いてやるのが人の情です。「三月がかり」だからといってお産の時と混同して早く家から送り出そうとするのは止めにしてほしいものです。満中陰(四十九日)は三月がかりでも心配ありません。
(『群馬天台』より)


問13.葬式の際につけていただく戒名とはどういうものですか、教えてください。

 今では、戒名は死んだ人につける佛式葬儀の場合の儀礼的名称のことのように思われていますが、それは違います。

 本来佛教教団に入信し、佛の教えに従って戒律を守り将来必ずさとりを得、佛になれると証明された人に付けられる名が戒名です。戒名の戒とは、「不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不飲酒」の五戒を基本とする、人として守るべき項目のことです(佛法はじめの一歩もご参照ください)。

 この戒名の起源は『法華経』の中にみられます。弟子の中で智慧第一といわれた舎利弗(シャリホツ)という人にお釈迦様は「おまえは正法を守り、菩薩の行うべき道を全て満たしたから、将来必ず佛になれる。その時の名は華光如来である」と舎利弗に法名(佛門における名)を授与されました。

 今日ではお釈迦様の代理役として、菩提寺の住職が授戒師となり檀信徒に授与する法名を通常戒名と呼びます。

 従って授戒に二つあるわけです。

 (1)生前授戒……生きているうちに佛弟子となって、戒を守ることを誓う。
 (2)死後授戒……生前授戒の機会に恵まれず、死後葬儀の中で戒を授け、死者本人の未来成佛・往生安楽国を願う。

 一般に葬儀に際して戒名を授け、遅まきながら死後成佛を願っているのです。よく世間で死者のことを「ほとけ」と呼びますが、それは死と同時に人間の持つ佛性を曇らせている煩悩(様々な欲望)も死と同時に消滅する。従って成佛の可能性があり、かつ佛は広大な慈悲によって、必ず安楽の世界に導くといっている。従って死者はいつかは成佛するに違いない。ということから「ほとけ」と呼ぶのです。

 けれども本来、機会があれば生きているうちに授戒し、佛の弟子として、より良い人生を送るのが本当ですから、生前授戒を志してください。例えば天台宗では、比叡山において円頓授戒や結縁灌頂という授戒や佛縁を結ぶ儀式に参加できる機会がございます。皆さんの各菩提寺のご住職にお問い合わせください。

(『群馬天台』より)


問14.よく「○○寺の檀家」という言葉を耳にしますが、「檀家」とはどういう意味なのでしょうか。

 檀家という言葉の源は、インドの古い言葉サンスクリット語の「ダーナ(檀那)」から来ています。これは「お布施」という意味ですから、お布施によってお寺を支えている方々が檀家という訳です。お布施を受ける寺のことは「檀那寺」と呼ぶようになりました。

 今から2500年前、インドのコーサラ国の都・サーヴァッティー(舎衛城=しゃえいじょう)という所にスダッタさんというお金持ちがいました。お釈迦様のお話を聞いてすっかり感心したスダッタさんは、是非ともお釈迦様とその弟子たちをお迎えしたいものだと思い、一行が修行に努めたり泊まったりするところを建ててさしあげようと考え、色々苦労して土地を手に入れ(この土地を入手する過程にも大変興味深い話が伝わっていますが、ここでは省きます)、祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)を建てました。これがお寺の第1号であるといわれており、スダッタさんが檀家第1号といってもよいでしょう。

 檀家の皆さんとお寺との関係は、二度とない人生を悔いなく生きるために、仏さまの教えを示してもらう場所であり、自分に繋がる先祖や身近な亡くなられた方の供養を行い感謝報恩を示す場所でもあります。

 現在のような寺と檀家の繋がりは江戸時代の宗教政策で制度化され、現在その弊害が指摘されることもありますが、外国から日本を訪れたキリスト教の神父さんの中には「日本のお寺に檀家があるのは素晴らしいことだ」と、日本人の文化や心を守り伝える大切な意味を持っていると受け止めてくれる人もおります。私たちにとってはあたりまえのように思えることでも考えてみると重要なことですね。

 お檀家とは、慈しみの心を持ち、それを実践する人々のことを意味します。今後是非お寺を活用して良い地域社会を作るよう皆さんも努めていただければ有難いと思います。よろしくお願い申し上げます。

(『群馬天台』より)


問15.宗教とはなんでしょう?

 宗教には創唱宗教と自然宗教の二つがあります。創唱宗教というのは、教祖があり、教団宗派という組織があり、それを広めるための宣教師なり僧侶がいます。自然宗教にはそういう組織がありません。地域共同体の結びつきや年間行事を通して、祖先崇拝や助け合いがもたれ、自然や偉大なものに畏敬の気持ちが持たれています。

 日本人に「あなたの宗教は?」と聞くと、多くの人が「私は信仰をもっていません」と答えがちです。だからといって日本人は無神論者かというと、そうではありません。日本人の多くは「自然宗教」を信じているのです。だから、日本人の行動をみていると、けっこう信仰心は篤いのです。けれども、特定の信仰をもち、その宗派のために活動する人は少なく、特定の宗教には逃げ腰となります。

 仏教は、れっきとした創唱宗教です。しかし日本では、祖先崇拝と結びつき、自然宗教に限りなく近づいてきました。その上に、仏教は、他の宗教をきびしく排撃せず、日本古来の神道とも融合してきました。約九百年間神仏習合が続いてきたのです。

 ところが明治維新となり、神仏の分離が国家によって打ち出されました。しかし、それが急にできる訳ではなく、各家に神棚と仏壇が共存し、神も仏も祀っているのです。この特色が、自然宗教となってきたのです。

 けれども、最近地域共同体が崩れました。又年中行事も信仰色を薄めています。盆や正月も長期の休暇と考える傾向です。

 しかも、公教育で、宗教的情操の指導もなされません。こうなると、自然宗教的な特色も薄れます。宗教の大切なところは、自分の生き方の基準をもつことです。今のままではエコノミックアニマルと呼ばれても仕方ない状態です。今こそ、改めて宗教を考える時ではないでしょうか。

(『群馬天台』より)


問16.脳死状態になった時、臓器を提供したいと思っていますが、身近に「臓器を提供すれば安らかに成仏できない」という人もいるので悩んでいます。ドナーとしての意思をはっきりさせてよろしいでしょうか。

 臓器移植の道しか治療法のない人にとって、日本では臓器移植法が成立していても、提供者があらわれにくい国であるといわれる。従って臓器を求めアメリカなどへ入国する例もある。

 臓器提供の前提として、脳死状態が、ただちに人の死だ、という考え方は、仏教の立場では容易に認め難い。何故かと言えば「人の死」とは経過であり、ポイントではないからである。

 以前は、@心臓が停まり、A呼吸が止まり、B瞳孔の反応がなくなった時点で(三徴候死)「御臨終です」を言われれば、だれもが納得してきた。ほどなく顔色も変わり、死臭も生じてくる。けれども、鬚が伸びたり、爪が伸びたりする体の上での変化はある。ということは、死にきっていない部分もあるのだ。だから、死後二十四時間内には、火葬はしないことになっている。

 ところが脳死状態では、人工呼吸器によって、心臓が動き、呼吸を続けているから、死に限りなく近づいていても、まだ死んではいない訳で、それを「死者」の中に入れるわけには、まだ納得できない。

 ただ、現技術の力では、生き返る方向にはどうしてもならない線は超えている(ポイント・オブ・ノーリターン=回生点をこえている)のは事実である。そこで、生き返ることは期待できないが、臓器としては生き生きしているから、これを臓器の不良で死に至ろうとしている人に活用しようという理屈はよく理解できる。

 ところで、この臓器移植手術をどう考えるかというと、仏教の立場で、@人が迎えた寿命を変えてまで生きるのは、生への執着ではないか。A臓器を提供した側は確実に死ぬのであるから、他人の命を短縮してまで延命を図ることの是非。などが受け手の問題として残る。

 与える側(ドナー)にとって@尊い、布施の行為となり得るか。A父母から与えられた体を自分の意思で傷つけることの可否。などが挙げられる。

 天台宗の基本的教えからみて「その人が受ける業=決定業も、強い信念と篤い感謝の念とによって変え得ることもある」という立場もあるので、他人の臓器による延命も必ずしも否定はされない。しかし、その結果得た、長らえた命を、世の中にお返ししていく社会的貢献と感謝の念が必要となる。また功成り、名遂げた人が、長らえるより、先の長い若い人に提供されるべきであろう。

 また、布施のあり方は「三輪清浄」が大切となる。則ち、与える人の心、受け手の心、与えられるもの、すべてが浄らかでなければ立派な布施の行為とならないという。この場合、早く提供者が出てくれることを願う気持ちが強かったり、提供者の出ないことに怒りを覚えるような場合、三輪清浄は実現できず、立派な布施の行為となり得ない。

 またいわゆる「五体満足の遺体」に執着することは、本来の仏教の立場ではなく、日本土着の遺体信仰アニミズムに由来するもので、火葬を本来とする立場では、とらわれる必要はなく、献体、医学的解剖などを拒否する理由とはならない。けれども、その心の中に、面倒だからとか、献体してしまえば後の処理が手軽だからという発想から来るならば遺体に対する冒涜であることはいうまでもない。

 とにかく、どうにもならぬ状態にあって、臓器の提供が、他の生命の維持に貢献できる状況を自分から感謝し得る場合、その提供が大きな布施の行為となることはまちがいない。

(『群馬天台』より)


問17.葬儀では塩を使って清めたり、神棚に「宮川」と書いて覆ったりします。葬儀のけがれとはどういうことですか。

 仏教では、死を「けがれ」とは考えません。しかし、今の葬儀の中には、仏教以前からの伝統的な葬儀儀礼の数々が伝承されてきました。仏教以前の民族信仰の中には、死が何によって生ずるのか解明されていませんでしたから「死は悪霊がとりついたため」と考えて、死体は仮屋をつくり安置し、見張りをつけ、悪霊が他にとりつかぬよう監視してきました。また、その仮屋も焼いて清めたといいます。また、死体も死後腐敗が進行して悪臭を放ち、体も崩れてくることから、恐ろしさを含めて、死穢として忌んできたようです。このことは日本の神話として作られ『古事記』などにも出てきます。

 しかし、時代が進むにつれて、宗教的な心情が進歩してくるにつけて、死体を監視するというより、故人を慕って、夜とぎをし、故人との思い出を偲ぶような通夜の習慣が出来てきたのです。恐れから思慕への変化の中で穢れの観念も少なくなってきたが、伝承としての清めなどが、現在も習慣的に行われています。

 したがって「清め」自体は特に必要とは思いませんが、一般の人が、それによって心の安定を得ている限り、強いて拒むものではありません。

(『群馬天台』より)

 ※なお、神棚に「宮川」と書いた紙を貼る慣習については判然としませんが、調べた範囲で推論すると、伊勢神宮の近くには三重県で最大の河川「宮川」が流れていて、伊勢神宮に詣でるときに川を渡った所で禊ぎをしたと、平安時代中期に制定された律令の施行細則『延喜式』にあるそうです。つまり宮川は伊勢神宮の聖域に入るために禊ぎをする清き流れであり、その慣習が全国に伝わって、死の穢れを避けるために神棚に「宮川」の紙を貼るようになったのではないかと考えられます。(他に根拠をご存知の方はどうぞご教授くださいm(__)m。)


問18.欧米では遺体に加工処理を施すと聞いたのですが、何の為ですか。日本でも行われているのでしょうか。

 ダイアナ元英国皇太子妃が交通事故で亡くなられたニュースは、いまだ我々の記憶に新しいところです。激しい衝突で遺体の損傷も大きかったようですが、棺の中の彼女の姿は、まるで眠っているかのように美しかったと伝えられています。

 欧米での埋葬方法は土葬が中心ですので、葬儀の際、故人を立派な棺に納め、生前に親交のあった人々が、時間をかけて最後のお別れの対面を致します。

 その時に、腐敗や衛生上の問題がなければ、見送る人は故人と心ゆくまでなごりを惜しむことができますし、また見送られる側も、生前と変わらぬ出来るだけ奇麗な姿で対面したいと願うのではないでしょうか。

 その為に施される遺体の加工処置を「エンバーミング」といい、欧米では広く行われています。アメリカでは南北戦争を境として急増し、現在では、実に九割を超える割合で実施されています。

 葬儀の形式や埋葬方法の異なるわが国では、故人にお化粧を施すことはありますが、大がかりなエンバーミングを行う例はまれで、全体の一パーセントに過ぎないとの統計が残されています。

 日本遺体衛生保全協会の規定では、生前の本人の申し込み、或は遺族の申し込みのいずれかで引き受けてくれる(但し二親等以内の親族の反対がある場合は実施しない)そうで、施術時間は三時間、費用は約十五万円程度とのことです。

(『群馬天台』より)


問19.なぜ、葬儀のあと法事を繰り返すのですか。

 葬儀のあと、初七日から始まって四十九日忌・百ヶ日忌・一周忌・三回忌、さらに順々に続く法事はそれぞれ大きな意味があります。亡くなられた人を弔い、安らかになれるよう残された人々が心を込めて行う訳です。それは故人にとっては、生前の生き方の中で作られた業因によって死後の在り方が変わるという十王などによる死後の裁きの思想があり、追善という形で善業を回し向けるという考え方もあります。

 けれども、最も大きな理由は死によって理不尽な別れを余儀なくされた遺族にとって大切な故人の死を納得させる重要な儀式でもあるのです。大切な人を失った後ポッカリと空いた空虚な心はなかなか埋め切れません。悲しみにひたっている時には他の慰めも素直に受け入れられません。

 「貴方の悲しい心のうちが良くわかります」と言われても「自分の心の中までわかってたまるか」と言いたくなる時もあります。ですが外国の例に比べると、日本の場合は配偶者を失った人の落ち込みがやや少ない、という調査結果があります。この原因を慶應大学の小此木教授は日本での死後の供養と関連付けて説明しています。

 初七日からはじまって一周忌・三回忌と続く法事は、残された人々の心に人の死を納得させる重要な儀式なのです。心を込めて法事をつとめる事によって、心も徐々に癒されてゆくことが報告されています。派手に行うことは必要ありません。心から故人を偲び、故人の冥福を祈ることが大切です。

(『群馬天台』より)


問20.お墓参りの決まりはあるのですか。又、どんな事に気をつけたらよいでしょうか。

 お墓参りの特別なルールはありません。地域によっては、その土地の伝統があるでしょうが、大切なのは、心をこめてお参りすることです。

 けれども、近年いろいろと考えなければならぬ事が生じました。一つは、環境保全の留意が大切になりました。掃除の際のゴミや不要になった花や供物などのゴミを持ち帰って頂きたいのです。焼却できるときは良いのですが、お墓のゴミは寺で処理に出すと産業廃棄物として処理費が高くつきます。果物などもお供えしたあと、参加者で供物として分配し、お墓に残さぬように心がけて欲しいのです。残したままにしておくと、腐ったりカラスなどの野鳥に荒らされて墓石を汚す原因になります。

 お塔婆なども、古くなったものは、所定の所に片付けて下さい。

 お水とお線香は、墓参りの際は欠かせません。線香は、防火に注意して下さい。お水はどのようにかけてもかまいませんが、浄水と書かれている墓前の凹みのところには必ず水を注いで下さい。墓によっては蓮の花が描かれているように、そこは極楽の蓮池を模しているのです。お線香を供える場合、施主が最初に供えますが、その後は近い場所に居る人から順に供えて下さい。遠慮して、譲り合ったりすると時間がかかり、線香が短くなってしまいます。また、お線香を供えた後、後ずさりしないよう注意して下さい。後ろに火を持った人が居るのです。回れ右して、前向きに退出することが安全です。お尻を向けても失礼にはなりません。足場の悪いところですから安全第一です。

 またお線香を供えたあと、身を屈めて礼拝する必要はありません。ハイヒールの場合など、不安定ですし、天気の悪いときは、裾を汚しがちです。立ったまま合掌しても決して悪くはありません。

 これらに注意して、忌日にかかわらず、楽しいことにつけ、苦しいにつけ、墓前に報告し、語りかけることが大切です。お墓は先祖との対話の場です。

(『群馬天台』より)



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