ここでは佛法を現代人に分かり易く伝えることを目的とします(不定期更新)。
仏教徒が守るべききまり=戒律は「戒」と「律」に分けられます。戒は「修行規則を守ろうとする自律的な決心で、修行を推進する自発的な精神」です。また「集団生活において修行する」ときは「集団の規則を守ることが要求され」ます。「その集団規則が」律です。僧も100人寄れば100の考えが在るため、教団を円滑に運営し僧たちの和合を図るために律があるのです。このように律は他律的なもので、一般社会でいえば法律はこれに比定されますが、各自が「それを自律的な戒の精神で守るところに<戒律>の意味がある」のです。例えば規則に書かれていないから何をしてもよいわけではなく、律や規則に示される精神を踏まえて決まりを守り日々努めることが肝要なのです。
一般の信者は教団に属さないため律に制限されることはありません。信者が受ける戒としては、まず三聚浄戒(さんじゅじょうかい)が在ります。
「懴悔」と書いて仏教では「さんげ」と読みます。「ざんげ」と濁りません。昔或るお笑い番組で、番組収録中に間違いをした出演者や番組制作者が教会のキリスト像を模した芸人の前で許しを乞い、許されない場合は上から水を掛けられるというネタがありましたが、これは佛教やキリスト教の懺悔の行儀をうまくお笑いに転化したものといえましょう。
日常の自分自身の行いの善悪はなにがその基準を示しているのでしょうか?親・先生・友人等様々な周りの人の教え・忠告もあるでしょうが、とどのつまりは自身のこころではないでしょうか。様々な場面での感情や判断が些細なこころの揺れ・衝動に繋がり善悪の振幅を生じ、あるいはその自覚すらも超えて行動に及ぶ。その結果周囲にもたらした影響や結果に思い悩む。誰が見ているわけでもなく、誰に指示された訳でもないが、ある行為を選択する。良い行為なら満足感を覚え、悪い行為なら罪悪感に悩む。良かったこと・楽しかったことよりも、不思議と悲しいこと・つらいこと・罪なことは長くこころに留まります。誰しも幼少のころからの誰にも言えぬ苦い思い出をお持ちではないでしょうか。「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉は世間一般の「悪事」に対する考え方をよくあらわしていると思います。悪事の果報は社会的制裁の如き実罰に留まらず、自身を内面から苦しめる種としての罰が加えられるのです。
戒律が「転ばぬ先の杖」ならば懴悔は文字通り「地獄に仏」といったところです。懴悔はお釈迦様の時代から行われていました。弟子がお釈迦様に罪を告白して許しを願った例が最も古い年代の経典にいくつも残されています。佛・菩薩・師長・大衆の前で告白し謝ることによって罪を滅することができるという考えが成立したのです。懴悔は宗派を問わず行われ、天台宗ではいくつもの懴悔の作法(懺法…せんぼう)が定められ、現在に伝えられています。
過ちを悔い改め、日常生活を明るく前向きに理想的なものとする為に懴悔は大変重要です。あなたが罪悪感で思い悩むとき、心静かにお寺の佛・菩薩や仏壇の佛様に悔いの内容を告白して許しを乞い誠心に懴悔すれば、きっとあなたの大きな支えになってくれるでしょう。日頃からの手を合わせる(合掌する)謙虚な心が大事です。
当敷地では佛暦を標準使用しています。暦の紀元の定め方は、それを用いる地域の政治体制や民族文化と深いつながりがあります。通貨や共通語などと同じく、国民や民族の意識統合の軸として紀元を何に依るかは大事なことです。
佛暦を使用する上で、歴史上の人物としてのお釈迦様=ゴータマ・ブッダの生没年をいつに定めるかの検証作業が必要になりますが、その年代は異説が極めて多く、百種以上もあるそうです。その中で現在広く使われているものや、学問的に有力な説を挙げると次の年代があります(更に関心のある方は『中村元選集 第11巻』春秋社刊 をご参照下さい)。
天台宗を開き日本に佛教の新風を吹き込んだ傳教大師・最澄様とはどのような人であったのか、その生涯と事績は深入経蔵に挙げた書物等に詳しいですが、ここではごく簡単に私的解説を加えつつその伝記・事績を紹介します(以下敬称略)。
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最澄は1332(西767…一説に766)年に今の滋賀県琵琶湖岸の大津市で生まれました。戸籍では大津市の膳所・粟津・石山付近ですが、大津市坂本の生源寺(しょうげんじ)が生誕地であったという伝承もあります。幼名は広野でした。
12歳の時に近江国分寺の法相宗の学僧行表のもとに預けられ、15歳で得度(仏弟子となる作法)し仏門に入りました。20歳で奈良東大寺の戒壇院で授戒し公認の僧となりました。しかし最澄は当時の都の仏教のありようを拒絶して同年のうちに郷土の比叡山に籠り修行生活に入りました。山中に於いて若き最澄がその決意を示したものが『願文』です。
この籠山中に様々な経典を読誦・書写し、中国南北朝時代の僧・天台大師智(ちぎ・1103〜1162〈西538〜597〉)の著作に触れます。ちなみに天台宗の「天台」とは中国浙江省天台県にある山の名前であり、智はこの天台山に於いて修行・思索を重ね『妙法蓮華経』の教えを中心に教理体系を確立しました。その教理は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の「天台三大部」を中心に展開され、法華経の一仏乗(すべての存在は仏になりうる)の教えを中心とし、併せてその実践法を具に説いています。『願文』に示された理想の実現のためにあらゆる経論を読んだ最澄は、法華経と「天台三大部」の教えを自らの根本に据えました。
最澄は更に天台教学を深く学ぶため、入唐留学を朝廷に申し出ました。1369(西804・延暦23)年に、後の真言宗開祖となる空海と共に唐に渡った最澄は、8ヶ月余りの在唐の間に天台学を学ぶのみならず、すべての人が仏になれることを明かす大乗菩薩戒を授かり、更に密教や禅をも学ぶ機会を得ることができました。
帰国した最澄は天台教学に基づいた人材育成のために、天台宗にも公認の出家得度者を与えるように朝廷に請い、1371(西806・大同元)年1月26日に認められました。こうして日本天台宗は正式に発足することになったのです。この1月26日は現在も天台宗の開宗記念日として祝われています。
最澄がその思想の根本に置く『妙法蓮華経』は全ての存在はほとけになりうることを説く経典であり、したがってすべての人が等しく菩薩(ほとけとなる予定の人)として仏道修行に励むことの出来るような仏教の在り方を考えた最澄は、自らが材唐中に授かった大乗菩薩戒をその精神規範とすることに定め、弟子に授けるのみならず、自らかつて奈良東大寺で授かった戒(具足戒)を捨ててしまいました。これは僧尼令に反することであり、伝統的権威を守ろうとする奈良仏教界との対決は避けられないこととなりました。
それからというもの、最澄は大乗菩薩戒を授ける戒壇設立のためにその心血を注ぐこととなります。奈良仏教界の論師や東国の僧徳一と論争を行い法華経に説かれる教えの優位を明らかにし、東国への布教活動を行い、円仁ら後進の育成に努めました。
戒壇設立の願い叶わぬまま1387(西822・弘仁13)年6月4日に亡くなりましたが、死後一週間後に大乗戒の新制が許可されました。その遺徳を称え、1431(西866・貞観8)年に「傳教大師」の号を贈られました。
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最澄様が中国から持ち帰り開いた日本天台宗の教学は、『妙法蓮華経』を中心とした仏教の総合的体系ともいえるものであり、密以下は円の教えを別の視点から表現する教えという位置付けといえます(教義の優劣とはまた別です)。
◎円・・・究極にして完全なおしえとし、円教とも呼ぶ『妙法蓮華経』を中心とする、すべてのものがほとけとなれることを示す教え。
◎密・・・世界の表象すべてを大日如来の顕れとし、からだとこころの作用をほとけと合一することによりそのまま自己をほとけの世界に到達させる教え。
◎禅・・・迷いを断ち心を明らかにしてほとけの智慧を体得する為、お釈迦様と同様に瞑想し精神統一をすすめるための教え。
◎戒・・・円教に言われる如くだれでもほとけになれるように、日常に於いて悪を止め善を行う為の確固たる精神基盤を成すべく自らが仏に誓って授かる戒。
この他天台の修行法に阿弥陀仏を念じその御名を唱え続ける「常行三昧」という行があり、これは「念仏」の基ともいうべきものです。
以上みたように最澄様の教学は幅広く、その全てが後世に与えた影響大であり、特にご命日の折にそのご遺徳を偲び報恩の思いを新たにするものです。
当敷地の表紙にある来訪者計数表示には「あなたは累計○○人目の如来の記別を受ける方です」と書いてあります。この「記別」とは天台宗の最も尊重する経典である『妙法蓮華経』というお経の中によく示されています。
『妙法蓮華経』は『法華経』と略称され、西暦五世紀の始めに中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という人の漢訳したものが最も良く用いられています。その主旨は、伝統的経典解釈の立場と近代経典成立史の観点から
伊勢崎市文化会館で公演された音楽劇『円仁』が素晴らしかったことは巻頭の「一言半句」に書きましたが、あらためてご存じない方のために円仁さまの生涯をご説明します(以下敬称略)。
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円仁は平安遷都が為された1409(西794・延暦13)年に下野国都賀郡(今の栃木県上・下都賀郡)の地に誕生しました。生誕地には後に円仁が師事する天台宗宗祖最澄の一切経書写を援助した道忠がいたことで知られる大慈寺という寺があり、円仁は少年時代にそこで道忠の弟子広智について佛教を学びました。その背景には当時東北での度重なる戦乱による社会や人心の荒廃があり、その救済のための智慧を佛教に求めたのではないかと考えられます。15歳とも17歳とも伝えられるころ比叡山に登り最澄に師事するようになります。この頃の最澄は唐から持ち帰った教えを広め、また天台宗が公認されるなどで比叡山内外で精力的な布教活動を行っていました。円仁の聡明さはすぐに師の目に留まり、経論の講説を任せるなど信頼を置き、称賛してやまなかったといいます。
23歳の時に東大寺で具足戒を受け、翌1382(西817・弘仁8)年には師最澄の東国巡錫に随行します。このとき最澄は上野国緑野郡(現在の群馬県多野郡鬼石町)の浄法寺と下野の大慈寺にそれぞれ宝塔を建てて中に『妙法蓮華経』一千部八千巻を安置し、またそれぞれ十人の弟子に密教の教えを伝える儀式「伝法灌頂」を執り行い、この時円仁はかつての修行の地大慈寺にて伝法灌頂と大乗菩薩戒(円頓菩薩大戒)を受けました。その後は比叡山で勉学と修行の日々を送ります。
その後最澄が晩年において大乗戒を授けるための戒壇の認可を得るために尽力をしたことは別項で触れましたので省きますが、存命中はそれは叶いませんでした。比叡山での出会いから十数年で円仁は師との死別に遭うこととなり、円仁ら遺弟は師のやり残した事業の完成という課題を担うこととなりました。最澄の死後円仁は引き続き比叡山で修行を積み、1394(西829・天長6)年36歳のときから東北地方への布教を行いました。
1400(西835・承和2)年、円仁の人生を大きく左右することがありました。遣唐使の一行に加えられることとなったのです。遣唐大使の藤原常嗣は生前の最澄と親交があり、円仁とも面識があって遣唐使への推挙に尽力があったものと考えられます。入唐にあたって円仁は、天台宗の教えの深い部分についての疑問を天台の発祥の地にて解決するためにいくつもの疑問集を携えて行くことになりました。また天台宗からはもう一人円仁より若年の円載が共に遣唐使に加わりました(この円載については謎めいた逸話が伝えられていて興味深いものがありますが、それはまたいつかの機会にゆずりましょう)。
円仁は出発のときから帰国に至るまでの間、実に詳細な日記を付け続けていましたが、これが玄奘三蔵の『大唐西域記』マルコ=ポーロの『東方見聞録』と並び三大旅行記の一つに数えられる『入唐求法巡礼行記』です。アメリカ合州国の歴史研究家で駐日大使にもなったライシャワーがかつて英訳・研究を行って有名になりましたが、「円仁自身の求法経験と唐代の仏教事情のみならず,日唐関係とりわけ遣唐使の具体相を知るためにも,また当時の沿海新羅人,唐の地理・交通・経済・社会・習俗から末端の行政組織について研究する場合にも,根本史料として重要(『世界大百科事典 第2版』より)」 です。 この記録が伝えられたおかげで苦難の求法の旅の顛末のみならず、当時の中国の政治・文化・世相などをありありと知ることができます。
2度の難破を経て3度目の出航でようやく円仁一行は1403(西838・承和5)中国の揚州沿岸(現在の江蘇省。上海の北約100キロメートルほど)に到達しました。この後の円仁一行の旅は細かく追っていけば単行本を要するほどのものになります(詳しくは足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記』全2巻 平凡社東洋文庫 がお薦めです)ので、行程の順を追って概要のみご案内します。
都長安への要請空しく、円仁が希望していた天台発祥の地天台山(現在の浙江省)行きの許可は下りませんでした。仕方なく携えてきた疑問への回答を得る任を円載に託し、天台山行きが許された円載は後にその回答を得ることが出来ました。要請に時間がかかったこともあり、円仁は揚州周辺で幾らか密教を学び伝法を受けたところで帰国の期限が迫ってきました。ここで円仁は公式の許可無くとも唐に滞在し佛教を学ぶ道を選び、山東半島先端にある赤山の近くで帰国の船から下ります。赤山にある法華院にて天台山と並ぶ天台修行の盛んな五台山(現在の山西省)のことを知り、天台山よりも近くかつ都長安行きも望める五台山へ行くことを決意しました。
五台山に到着した円仁は多くの経典を書写し、その後長安の都に到達し密教の奥義を全て学び終え、多くの経典や密教法具を入手した円仁は帰国の手はずを整え始めますが、折りしも1407(西842・唐の会昌2)年からの大規模な廃仏運動に直面し、随行の弟子惟暁が亡くなり、強制的に還俗させられるなどの苦難に遭いつつ1412(西847・承和14)年、10年に亘る入唐求法の旅を終え帰国の途についたのです。54歳のことです。
帰国後の円仁は比叡山の堂塔伽藍を整備し、入唐で得た密教の修法を盛んに執り行い弟子たちに伝えました。また持ち帰った経典の解説を書き著しました。1419(西854・仁寿4)年には天台座主に補任されました。精力的な活動は晩年も変わる事無く、1429(西864・貞観6)年に71歳で亡くなる直前まで布教に力を注ぎました。滅後2年を経て勅により師最澄への「傳教」の大師号とともに日本において初めての大師号「慈覚」号をおくられました。円仁の生前の業績のほどがしのばれる出来事であり、また多くの伝説が後世に伝えられています。
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円仁さまについては幾多の良書が刊行されていますが、ここでは佐伯有清著『円仁』(吉川弘文館)を参照させていただきました。御礼申し上げます。