暮らしの佛事


 ここでは暮らしの中の佛事を採り上げて分かり易く述べてゆきます(不定期更新)。


1.戒名

 生前は全く馴染みが無く死ぬと突然付けられる名前、今の戒名の実情はこんなところでしょうか。

 戒については「佛法はじめの一歩」に書きましたが、戒名は「受戒したものに与えられる名」、つまり現在では、死後もほとけの加護と導きによってさとりの完成を目指すために坊さんが亡者に戒を授け、その証として新たな名前を付ける訳ですが、本来は生前に入信した者に与えられました。出家して僧になった者が付ける「法名」もこの戒名と同義です。

 生前に「結縁灌頂(けちえんかんじょう…密教の灌頂の儀礼で、自身が縁を結んだ佛を導きとする)」などを受けていれば、戒名を予め受けることが出来ます。あなたも本名とは違う名前を授かり、日常生活の心の支え・励みにしてはいかがでしょうか(質問箱もご参照ください)。
(2566.2.28)

2.お彼岸

 「ヒガンバナ」や「暑さ寒さも彼岸まで」などの言葉があるように、暮らしの中に定着している「お彼岸(彼岸会)」。春分の日と秋分の日を中日(ちゅうにち)として前後3日の一週間をその期間とし、寺参りや墓参りを行うのが一般的な慣わしになっています。

 この「彼岸」という言葉はそもそもどの様な意味かと申しますと、彼岸は読み方を変えると「彼の岸」こちらから見た向こう側の岸ということになります。そしてこちら側の岸(此の岸=此岸<しがん>)とはわたしたちの住む世界=娑婆(しゃば)のことで、彼の岸はほとけの世界を指します。修行を完成させた(ほとけのさとりを得た)状態を「到彼岸(とうひがん)」と呼ぶこともあります。有名な『般若心経』は正式名を『摩訶般若波羅蜜多心経』といいますが、この題名の中の「波羅蜜多」とはインドの古い言葉である「パーラミター」の漢訳で、「到彼岸」の意味なのです。つまり般若心経は大まかにいうと、わたし達がほとけのさとりに至る為のお経なのですね。

 彼岸会は本来「佛道の目標とするさとり・成佛を、目指すべき理想の彼の岸に譬える。煩悩に覆われた此の岸から彼の岸を望み見る機会がお彼岸です(『天台こよみ』より)」広い意味では佛道修行を積む機会をいいますが、それが現在のお墓参りなどの先祖供養に至ったのはなぜか。

 阿弥陀如来が治める極楽世界は西方にありますが、この極楽世界をこの世で観想するには太陽が真西に沈む時が最も良いという信仰があります。太陽が真西に沈む日は?春分と秋分ですね。この時期に死後極楽世界に居ますご先祖に思いを馳せ、そのありがたさに感謝し先祖供養を行う慣習に繋がっていったのです。雑事から少し離れ、先祖や日常のご縁に感謝し自分を省みる機会になるようお彼岸を迎えましょう。
(2566.3.14)

3.花まつり

 佛教の開祖であるお釈迦様の誕生日をお祝いする日です。灌仏会(かんぶつえ)・降誕会(ごうたんえ)などともいいます。「花まつり」と呼ばれるようになったのは明治時代に浄土宗が採用したのが最初のようです。現在では宗派を問わず「お釈迦様の誕生日をお祝いする日」の名称として用いられています。

 花まつりはお釈迦様の伝記を伝える経典『佛所行讃(ぶつしょぎょうさん)』などを根拠にして4月8日に行われるのが一般的慣習です。華で飾った「花御堂(はなみどう)」に、お釈迦様が誕生されてすぐ7歩歩んで右手を挙げて天を指し、左手を垂らし地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたという伝承を元にこのお姿を刻んだ仏像(誕生佛)を安置します。誕生に際して天から甘露水(最高の香りと滋味を持つ水)がお釈迦様の頭上に注がれたことから、甘茶を誕生佛像に掛けてお参りします。甘茶は参拝者に振舞われ、甘茶を持ち帰り墨を磨って習字をすると上達するとか、害虫除けのお札を書いて貼ると虫除けになるなどの習俗があります。

 花まつりに当たる行事は古くから行われていたことが記録に残っています。現在でも日本の他には南アジアの佛教国で5月頃に行われるウェーサク祭が花まつりに相当します。キリストの誕生日であるクリスマスはすっかり現代の年中行事として定着しましたが、花まつりはまた違った趣があります。新入園・新入学等、年度始めの新たな門出にお参りをし、誕生仏像に誓いを立ててみては如何でしょうか。
(2566.3.25)

4.お盆

 7月13日〜16日はお盆です。13日はお盆の迎え火の日で、16日は送り火の日です。もっとも地方では月遅れの8月のお盆が一般的でしょう。

 お盆についての行事は地方によってさまざまです。盆棚を設けお飾りをし、ナスやキュウリの動物を作るのはよく見かける習慣ですが、精霊流しや、特異なものでは京都の大文字焼きなどもお盆の行事です。

 この時期、寺院では「施餓鬼(せがき)」という行事を広く行います。施餓鬼とは「餓鬼に施す」意味であり、餓鬼とは生前物惜しみをして他人へ施しを為さなかった人が堕ちる世界(餓鬼道)の住人のことです。この世界は前世の報いで食べ物・飲み物すら手に入れることが出来ず飢えと乾きに苦しみ、たまに手にした食べ物は瞬く間に炎と化してしまい、さらに餓鬼を苦しめます。お盆は祖先の霊がそれぞれの子孫の元へ里帰りをする機会、仏教ではそれら祖先の霊とともに餓鬼道で苦しみを受けるあらゆる霊を供養するために「施餓鬼会(せがきえ)」の法要を行うのです

 実はこの餓鬼道、現世の人の在りようを喩えた世界でもあります。みなさんは日頃「あれが欲しい、これが欲しい」と欲望に囚われていませんか?物欲に限らず、出世欲・名誉欲・愛欲・性欲等々、様々な欲に囚われ、それが叶わず苦しみ、時には鬼と化して他人を害してしまうたその姿は、當に餓鬼道の餓鬼そのものです。

 勿論、家庭・学校・地域・職場等における暮らしの中での努力向上のための「意欲」を否定するものではありません。ですが、強調しておきたいのは何事もそれに囚われてはいけないということです。例えばお金は日常生活の上で生活必需品を始め消費財や嗜好品などを手に入れ、他人とお付き合いする上で必要とされるものですが、お金自身は道具に過ぎないわけです。その道具を崇め奉り、肝心のものにそれを使わないのは本末転倒でしょう。うまく使いこなしてこそ真の価値が発揮されます。近頃は携帯電話を見るとそれを感じます。迷惑も考えず電話に「使われている」人の何と多いことか。

 近年家族の在りようや地域の交流もどんどん変化しています。伝統的な風習は廃れつつありますが、お盆の現代的意義としては、祖先からの繋がりがあって今現在の自分が此の世に在ることに感謝しつつ、自身の心が餓鬼と化していないか、日常を静かに振り返る機会にしていただければと思います。
「質問箱」もご覧下さい。
(2566.7.10)

5.お盆つれづれ

(『南前橋部檀信徒会だより』第12号執筆記事)

 お盆は季節感の薄れつつある昨今ではだいぶ簡略化される傾向がありますが、それでも全国各地で様々な伝統行事が行われています。ここではお盆の行事そのものの由来についてふり返ってみましょう。

 お盆は仏事の一つです。仏教は文字通り仏さまとその教えを信仰し、教えに基づいた布教と行事を行います。

 この世には様々な仏さまがいらっしゃいますが、歴史から見た仏教でいう仏さまとは、今からおよそ二千五百年前にインドにおいて、この世の一切の苦しみからの解放のための叡智をおさとりになられた仏教の開祖「おしゃかさま」を指します。さとりをひらいた人を古代インド語で「ブッダ」といい、インドから中国に仏教が伝えられた際に「ブッダ」に漢字の音を当てて「佛陀」と表記し、さらに略されて仏と表されるようになったのです。

 ちなみに水が熱せられて湯にかわることを「沸く」といいますが、この字は佛の字に似ていますね。これは沸に「水が水でないものに変わる」という意味合いがある如く、佛にも「人でありながら人を超えたものになる」という意味が込められているのですよ。

 さてお盆に話を戻しますと、「お盆」というのも考えてみると変わった行事名ですね。行事そのものは普段使っているおぼんとは何の関係もありませんから。

 実はお盆は正確には盂蘭盆会(うらぼんえ)といい、これを縮めてお盆と呼んでいます。この盂蘭盆、元々はやはりインドの言葉で原語は「ウランバーナ」といいます。盂蘭盆はこの原語の音訳です。つまり盆はバーナの音訳で、盆の字そのものには意味はありません。 ところでウランバーナとは「逆さ吊りの苦痛」を意味し、この意味をとって倒懸(とうけん)とも訳されました。おしゃかさまご在世の頃の古代インドでは、世間で守られるべき慣習をきちんと為さないと、死後この倒懸の苦しみを受けるといわれていました。

 おしゃかさまのお弟子の一人である目連尊者は今で言う霊感の鋭い方で、母の霊が死後餓鬼道に堕ちて苦しんでいるのを感じ、おしゃかさまの教えに従って七月十五日の僧たちが総懺悔をする行事に当たり食物などの布施をしたところ、その功徳で母親が救われたという故事を『盂蘭盆経』が伝えています。

 先亡祖霊の供養を行う盂蘭盆会の行事は、記録に残るものだけでも千四百年以上前に中国において行われたことが分かります。日本では早くも聖徳太子の時代に始まり、以後は日本各地に伝わり現在に至ります。

 誰もが限りあるいのちをいただいて日常を過ごしていますが、報恩感謝の機会をついつい失いがちです。お盆の時期は改めて先亡祖霊から自分へと続くいのちのありがたさを感謝し、日々の至らぬ点を省みて功徳を積む機会にいたしましょう。
(2568.10.22)



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